強行採決の迫る9月14日の早朝、松本から新宿行の高速バスに乗り単独で再び国会前に向う。以後18日夜半まで抗議集会に参加した。睡眠場所は上野の特安カプセルホテル。
15日、参議院特別委員会中央公聴会では学生代表のスピーチも実現する。
連日の人波の中に有名人が時々混じる。他に見知った顔はない。長い時を経てお互いの面貌は大きく変化しているのだから、前もって参加を確認しあっていないかぎり、すれちがう知人に気付くのは難しいだろう。公園の灰皿などを囲んで見知らぬ人たちとの立ち話は多い。互いに磁力が働くのか、おおむね同年輩の輪だったことが後でおかしかった。用意していたビラを配布することはほとんどなく、突っ込んだ議論にもならなかった。ただ、何かを共有している雰囲気をそれとなく交換しあうだけで十分な気がしていたのである。集会本部や小グループのコールに唱和し、自作の小さなプラカードを携えてランダムに移動する。夕刻には官邸前の辺野古新基地反対集会にも一時合流して声を張り上げた。
翌16日、多くの要望(自分も鴻池委員長宛にファックスを送付)を無視できなくなった参議院特別委員会は、アリバイ的に横浜で地方公聴会を開いた。終了後の15時40分頃に、新横浜プリンスホテル前で発生した市民による議員らの車両を阻止する行動(シットイン)の影響なのか、または強行採決の秒読み状態に備えてなのか、国会前警備は、午後から時間を経るほどに過剰を極めていった。歩道沿いの金柵補強や警察官の増員ないし配置強化に加えて、車道の脇を装甲車でスキマなく囲んで強力なガードを形成する。警備体制に対する集会参加者の不満は次第につのった。夜七時半頃、過剰警備を決壊させようとして警備陣とやりあう動きに一般参加者のストレスが連動する。金柵と装甲車の間に出た人々が、より広い空間に出ようと、前へ前へ押し寄せた。議事堂に向って左側最前列付近に飛び出した自分は、押し寄せる人々と押し返す警察官らに挟まれて揉みくちゃになる。後ろから強引に押し上げようとする不自然な意図も感じた。周囲には、今にも倒れそうな私以上の年配者やご婦人たちも多かったのだ。人々の発声はコールから怒号に変わり、「押すな!」「押すと死人が出るぞ!」との声が混じる。後で聞くところによると、中核派らしき一団がかなり強硬な突破を試み逮捕者も出たという。
そんな中、警官らと群衆の間で、興奮状態のなだめ役に徹している青年がいた。ケガ人や逮捕者を出さないように、主催団体(もしくは自発的な個人)の配慮だったのだろう。しかし、過剰な警備体制を前に、権力の物理的顕現に燃え上がった目にはかえって胡散臭い存在に見えてしまう。勇ましい言動で闘争の飛躍を目ざす反権力的視点から、彼のような位置取りに対して浴びせられる批判も当然ありうるだろう。自分の口をついて出たのも、「君は警察側の人か?」という皮肉な一言であった。彼は一瞬こまったような苦笑を浮かべたけれども、あえて反発を口にすることはなかった。そういえば、私自身四十数年前の激しい街頭行動の渦中、孤立した機動隊の一人を囲んで角材を振るう数人に向って、「敵は孤立した生身の人間ではない、リンチは止めろ!」との主旨を何度も叫んでいたことがあった。言葉に反応しない〈味方〉の複数の眼球は硬化したオブジェのように見えたものだ。人と人は、存在が瞬時にとる不可解な形態の先端で、すれ違いざまに一つの場を共有し、かつ敵対していることがある。青年にどこかで会う機会があれば、今度はまともな対話の道筋を開きたいと思った。
17日、参議院特別委員会は安保法制を強行採決。国会前はかなり激しい雨となった。警備はますます強化されている。前日の怒号のせいか、私は声帯をやられて声が思うように出ない(後日、肺炎を併発)。
18日の集会には、午後10時頃まで参加した後、集会場所を離れて新宿から高速バスに乗った。松本の妻の実家に着いて一息ついた19日未明、テレビで参議院本会議の結果を目にする。法案可決とはとうてい言い難い、ブザマな民主制の現在が映っていた。SEALDsのメンバーを中心に国会前の抗議は明け方まで続いたという。
昨年2014年もやはり暗雲の中に暮れていったが、師走16日の沖縄県知事選の結果は希望をつなぐ出来事であった。11月初め現地の支援集会に出向き、月末近くに亡くなってしまった菅原文太も草葉の陰で喜んでいただろう。今年に入り、翁長知事は可能なあらゆる手だてを尽くして、ねばり強く辺野古新基地建設を拒否し続けている。「前県政の埋立て承認手続きに瑕疵あり」との第三者検証委員会の7月報告を受けて、10月13日には埋め立て承認を取消した。
米国(軍〜その周辺に群がる国内外の利権屋たち)の顔色ばかりうかがい、民意を強権的に押さえ込むしか能のない日本国家支配層は、政権運営に蔓延する一連の屁理屈の下で11月17日に提訴し、すかさず工事を再開した。12月4日に県が逆提訴するが、現政権は警視庁から百名規模の機動隊まで動員して反対する人々を排除し、工事の既成事実化を強引に押し進めている。地元住民らの存在を賭した闘いは続く。沖縄問題の本質は現在露呈している様々な問題と根っこで繋がっており、その検証と自覚の、より多くの主体による共有があらためて問われている。
一方、米国で影響力を持つアジア太平洋系アメリカ人労働組合(APALA)が、11月15日の幹部会議で、「名護市辺野古の新基地建設計画に反対する沖縄を支援する決議」を採択した。朗報を引き出した訪米プランを含む県ぐるみの模索はさらに拡大中である。国内の巨大労組は果して今後どう動くのか?
2011年の東北三陸沖大地震〜津波〜原発事故は、全ての日本民衆の身体及び〈無〉意識に極めて深刻な影響を及ぼし続けている。4年が過ぎた今日、いよいよその実態が様々な形をとって諸領域に露出し始めた。放射能のもたらす禍は今後ますます過酷の度を増していくだろう。現政権は本質的な対応を放棄しているばかりか、原発再稼働のみならず、他国への原発売り込みを「粛々と」押し進め、さらには、先の大戦後70年を通して、主に戦勝国側が拡散している血生臭い抗争への加担や軍事産業への進出を、「積極的平和主義」による外交と強弁し続ける。国内的には、企業優遇税制と消費税増税による国民負担の増大、加えて社会保障費の削減、権力や企業に従順な人材育成を策す教育界ないしは労働市場への権力的介入、特定秘密保護法やマイナンバー制度による管理システムの強化、屈折した歴史認識および現実認識に基づく憲法〈改正〉による国家意思への統合〜と、臆面もない反動性を加速している。生起する様々な危機的事例を都合よく国民心理にすり込みながらやりたい放題の政権に対して、主要メデイアは批判力を欠くばかりか、受身の国民に向けてプロパガンダを垂れ流し、人々の意識は未明の闇に宙吊られている。
しかし、自己の生活実体を掘り下げ、社会総体の課題に向き合う内発的な層が姿を現してきたこともまた確かなのだ。
今年の流行語大賞にも顔を出した「SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)」に象徴される主体性の出自は、3.11以後の情況性と密接に対応している。新刊本などほとんど買うことはないのだが、商業出版を介して出た2冊の本、「民主主義ってなんだ?」「民主主義ってこれだ!」をカンパの意味もこめて購入してみた。メンバー同士の対話が面白い。「高橋源一郎」という産婆術的個性との交差も。
牛田 日本の社会自体がもともと終ってたっていうか、3.11で完全に終ったみたいな感じがあって、じゃあやるしかない、みたいな。
奥田 完全に終ったっていうか、そんなこと言うことに意味がなくなったというかさ。3.11の前からこのままだったら終るかもって感じだったかもしれないけど、そんなん言わなくても、何かしら問題があることは……
本間 もうわかりましたって感じ。
奥田 そう、目に見えてわかってるから。それだけ言ってもしょうがないから。
「民主主義ってこれだ! メンバー座談会「本当に止める」のフィロソフィ」
福島原発事故の衝撃を官邸前での声に変換した人々の中に、今の主要メンバーの何人かが居た。2012年6月頃、原発再稼働反対の街宣行動後に30〜100人ほどの学生たちが日比谷公園で集まり、賛成も反対もなく自由に話し合う場を持った。「TAZ(一時的自律空間)」と名付けられたこの〈自主ゼミ〉的空間は、権力に排除されるでもなく、まさしく「一時的」ではあったようだが、スタンスの違いから常に決裂の危機をはらみつつ、街宣行動が前面に出る2014年の初頭くらいまでは断続的に続き、イベントも何度か行われたらしい。
2012年12月の衆議院選における自民大勝、翌2013年7月の参議院選の結果を潜り、その年の12月6日に、特定秘密保護法が衆議院を通過してわずか2週間であっけなく可決成立する情況に直面し、その日の国会前抗議行動に参加したTAZのメンバーが中心になって10人位でSEALDsの前身「SASPL(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)」が結成された。この間ICU・明学・中大など他校の学生同士のパイプができていったことも大きい。2014年2月1日にSASPL主催の最初のデモが行なわれ、あまり来ないだろうという予想に反して四〜五百名くらいが集まった。SASPL主催のデモはその年5月3日(憲法記念日)、8月2日、12月9〜10日と続く。デモに際しては、生硬な政治的言語を、だれもが言える言葉の水準に下降させる工夫と、民主主義とか自由を表現する〈仮装性〉としてのスタイル(音楽、コール、チラシ、Tシャツ、パーカーなどのデザイン)のクオリティ上昇が同時に模索されている。昨年12月の街宣行動を行なった後、SASPLは解散するが、メンバーは「ex−SASPL(元SASPL)」として沖縄の基地問題を中心にすえて活動を続けた。その頃から都心のみでなく、メンバーの必然性に応じた地方での活動も胎動し始めている。一連のプロセスを通じて彼らが意図したのは、「行動のハードルを下げ、政治参加の間口を広げる」「だれもが声を上げやすいきっかけをつくる」ということであった。
2015年5月、ex−SASPLはSEALDsとして再始動する。国会前の立ち話で多く耳にしたのは、活動家としての評価以上に「集会後は掃除をしてからアルバイトに向う。本当にさわやかな好い子達」といった親しみの言葉であった。そのことから逆に、活動家概念そのものを無意識に越えている新しさが感じられた。
組織論も斬新である。代表者は置かず、担当別の各班全員が司令官で、班のリーダーは副司令官と呼ばれていた。中心を空洞にしておき、そこに挿入されるべき〈外部〉の全体が幻視されているような発想はユニークである。メキシコの革命家の影響らしい。基本的には、SEALDsの複数形sは、「みんなが代表」という意味を含んでいるとのこと。堅く綯い合わされた紐のような組織的強度ではなく、ゆるく解体が容易で多様に対応できる関係性、すなわち集中と拡散の自由度が求められているのであった。
民主主義、立憲主義、非暴力主義を前面に展開する彼らの活動は、一見、理不尽な反動勢力から戦後民主主義の最良の部分を守ろうとする保守運動のように見える。その見え方が大学を含む既存の拠点に立つ多くの学者、法律家、政治家あるいは芸術家等を自然に引き寄せる要因なのであろう。だが、若者たちは、民主主義、立憲主義と並列することの矛盾もよく意識しており、スローガンを固定的な理念として掲げているわけではない。権力に対する〈幻想的バリケード〉として応用しながら、その都度「民主主義ってなんだ?」と問い、活動の過程で「民主主義ってこれだ!」と応ずる、そして再び同じ問いに返っていく。この無限循環を引き受ける主体化のプロセスを社会に浸透させたいという動機をそこに読みとることができる。そして何より貴重なのは、それぞれが、スローガンと自分の課題を突き合わせながら、基本的に、孤立した個人の言葉で語ろうとしていることだ。〈2015年〉という文明段階における既存の事物や概念を活用しつつも、その再発見〜再創造に向う文化〜社会運動の端緒に立っているということができよう。そして、水を差すようだが、うまくいっている時が最も危ういのである。時として賞賛は誹謗以上に初心を腐らすものだから。
ところで、対談のニュアンスから、60年安保闘争やベ平連運動への親近感と共に、大学を占拠した69年前後の全共闘運動に対する微かな異和感も伝わってくる。高橋氏は彼らの自由な対話の船頭役〜引き出し役に徹しており、先行する闘争の深堀に誘導することはあえてしていない。それが対話の幅を広げ、面白くしてるのだが、実は若者たちのこの異和感にこそ、様々な歴史的事件を規準にした時間軸や年代では総括できない、隠されている普遍的〈情況〉性への予感ないし怖れが含まれているのではないだろうか。
奥田氏は参議院特別委員会公聴会の意見陳述の終盤で、「SEALDsの一員でない個人=一人の人間」としての「最後のお願い」を次のように始める。
「どうか、どうか、政治家の先生たちも個人でいてください。政治家である前に、派閥に属する前に、グループに属する前に、たった一人の個であってください。〜」
この「個人」は、ポジティブ(肯定的)に使用されており、『政党や所属団体への帰属意識、あるいは社会的地位に縛られた位置からの発想を止めよう、止めれば問題の見え方が変わるよ』という方向性に主眼がある。問題を原点から捉え直すための主体の位置を指し示している。
逆に、既存の関係秩序に居直ったネガティブ(否定的)な使用も世の中にあふれている。提起を逃れる口実、あるいは他者に対する壁=〈逆バリケード〉として用いる場合だ。『それはあなたの個人的見解に過ぎない。わたしがこう思うのは個人の自由だ。』というように。この使用法に象徴される「個人」は関係の断絶の意志を指し示している。与党議員たちが「最後のお願い」を黙殺する根拠でもある。同じ語が関係の磁場を潜って文脈の中で意味を逆転させる。この二つの「個人」の間にそびえる懸崖への想像力と衝突の仕方が、〈全共闘運動〉に対する視点の最初の分岐点であろう。
〈現在〉は、コミュニズムと資本主義双方の神話が完全に破綻した時代である。科学、宗教、大学についても…。矛盾は拡大しているのに、止揚方向を指し示す総体的ヴィジョンの見えてこないジレンマにおおい尽くされている。そんな時代であるから、社会への批判や危機意識を、肥大化する自己観念に置き換え、強権との同調で乗り越えようとする人たちや、我欲の暴走を自然過程にゆだねる階層のニヒリズムが、〈安倍〉政権のようなものを頑強に支えるのである。
〈人〉が言葉を持って以来の巨大な転換点、言い換えれば、幻想性が物質の運動を呑み込んでしまった世界史的変動を、自らの生存の時間軸において受感した〈世代〉が、権力との対決と同じ比重で自他の存在方向への追求を不可避とし、あらゆる学問や制度の既成性とその存立の根拠を疑い、教師と学生の関係を含む特権性ないし階級構造への自問を拡大しつつ〈大学〉を占拠したり、社会的諸関係の動かしがたい現実と衝突して挫折や変節をくり返した〈69年〉前後の時代を、〈現在〉と一元的に重ねてみることはできない。しかし、その〈情況〉性において発せられた世界規模の問いは永続的(あるいは〈最終〉的)であり、当時の運動の負性として刻まれる様々な事例群も、より広いリベラル層の共闘を目指して今年可視化してきた若者たちの運動も、対等に、〈69年〉性の問いの何処かに深く関連しているのである。
松下昇は、〜1989年1月〜の「概念集・1」において、『全共闘運動』という概念に関して次のように記している。
『この概念についてのべられた全ての言説を一たん全否定して、長い時間を異質な生活過程で送ってきた人が、何かの機会に、もう一度、思い浮かべる様々の規定のうち、最後に残るかも知れないのは、
「自分にとっての必然的な課題と、情況にとっての必然的な課題を対等の条件で共闘させること」という規定である、と一たん仮定してみる。(69.5.29 文京公会堂における集会でも語っていることを、発言集を再読して気付いたが、この規定には、バリケード内での希望に似た絶望、あるいは絶望に似た希望が深く関与していたことを付記しておく。)
一方、世代的に何の予備知識も持たない人が、何かの機会に、前記の規定を知らないまま、〈同じ〉言葉を呟いていることもありうる。
双方の人に共通する〈何かの機会〉を今すぐに、どのように作りだすか・・・について前記の規定と全く異質に表現しうる〜せざるをえない〈人〉(そうなのだ、もはや人でないかも知れない)こそが、〈全共闘運動〉を把握しつつ生きていくのではないか。(後略)』
定義付けそのものを拒否するかのように記されたこの禅の公案のような〈概念〉提起を、現情況の〈外輪〉を照らす灯火として、年の暮れにかざしておこう。
〜2015年12月〜 永里