○日本古代史あるいは〈反日〉考


                  〜2013年3月〜 永里記

(一)大きな出入口

 年齢的なものも関係しているのか、図書館などで本の間をかすめている時、古代史関連のコーナーで立ち止まることが多くなった。各地の研究会や郷土史のグループを中心に歴史ブームは続いているが、予備知識の希薄な私は研究というほどの入れこみようは無理なので、推理小説を読むような傍観的な距離の取りかたしかできない。
 多元史観の古田武彦、三王朝交替説の水野祐、古史古伝包括論者の佐治芳彦らの説が気になる。江上波夫の騎馬民族征服説や、一見突飛と思われがちな、聖徳太子は蘇我入鹿だったという説(関裕二)や、聖徳太子は西突厥の河汗達頭(カガンタルドゥ)だったという説(小林惠子)等にもそれなりに刺激を受けている。どうやら興味の対象は学界の中心をはずれた所に位置しているらしい。「一定の角度から接近すればそうも見える」という模糊とした史実にこそ引きつけられロマンを刺激されるようだ。流布している諸々の仮説は史料との整合性がおおむね満たされるように展開されるけれども、個々の論旨の間をぬう更なる独自の謎解きの妙味が残されているように見える。しかし本当は、解読不可能な〈現在〉への心理的な渇きが投影されているだけなのかもしれない。発見したいのは正確な歴史事実という以上に、仮説と論証を介して展開される特定の史実から〈現在〉への明確な指向性なのではないかと思われる。
 古代世界へのロマンや学問的発熱の一方で、〈歴史観〉をめぐる深刻な対立が現代政治の上に暗然たる影を落としていることは逃れがたい現実である。外敵の脅威を強調することで自国内民衆のナショナリズムを刺激し、内部矛盾の緩衝材として利用する各国家権力は言わずもがな、冷静な学問的追求を建て前とする民間レベルの批判や応酬も、時として泥仕合の様相を帯びてリアルな関係性を規定してくる。各々の発想の根底にある認識の型はどのように形作られていくのか、ある事実性を意識の外に追いやって、むしろ無かったことにしたいという規制が働くことがあるかと思えば、強引に引き寄せて、過剰な意味付けを行なったりすることは誰もがけっこう無意識にやっており、各々の認識の型に沿って既成化した言葉の網の目を走る思考の迷走のようなものである。
 かつて、文明の根幹に向けられた幻想性の凝縮的発露であった1960年代末から1970年代、言葉や国家の成立過程に遡及して、問題を根源から捉え返そうとする機運が底辺に芽生えていたけれども、原初的な問いを持ちこたえられずに各領域の運動は孤立し分極していった。理想に対して次第に活力を阻喪していく〈青春〉の反動ででもあるかのように、個々の自問の袋小路から他者性を見失った狭窄的な志向が様々な事件となり、問いは怨嗟の底に沈殿している。1980年代、若者たちの純粋志向性の動向は極端に影を潜めていく。
 1991年、ソ連解体によって20世紀のコミュニズム革命神話は崩壊した。90年代中期に激震を走らせたオウム真理教事件は、出口の見えない息苦しい文明段階からもがき出ようとする感受性たちの逆立した共同幻想の暴走であった。結果的により大きな共同幻想である国家によって処置されていくけれども、本質的には、先の大戦を含む諸々の国家犯罪の再審位相と同等の審理過程が必要であろう。
 冷戦構造の大きな変換過程の中で迎えた新しい世紀2000年、イスラエル対パレスチナが再び衝突し(第2次インティファーダ)和平交渉は中断する。以後惨劇は繰り返し出口は見えない。翌2001年9月11日に発生した米国同時多発テロが、世界平和と秩序の要として喧伝されてきた軍事神話の崩壊を告げ、〈テロとの戦い〉という新たな神話の凄惨なルツボに世界の民衆を引きずり込んでいった。
 そして、2011年3月11日、地球〜宇宙からの〈警告〉でもある地震津波の渦中に発生した福島の原発事故によって、産業革命以来、人類の幸福の前提として、資本の自働増殖運動との両輪を形成してきた科学の発展の名による巨大技術文明の安全神話が崩壊する。
 20世紀の様々な〈神話〉が隠蔽してきた矛盾は止揚の方向を見出せず、権力を持つ層の描く世界像の中にあいまいに拡散させられつつある。個々の〈日常〉に分断された〈69年性〉の問いは、今も〈絶望〉しか見えない場所から新たな認識への出発を強いられ続けているのであり、日本古代史の謎解きの妙味に引かれて、興味の対象に向き合う一個人のささやかな感受性といえども、常に新たな認識の出発点に位置していることに変わりはない。その時、ただ囚われない目だけが、対象の複雑な仕掛けによく対応しうるのではないか。
 「その種がたとえ目の前に曝されていても、思考の方向が固定してしまうと、とんと気のつかぬものだ。手品の種なんて、大抵見物人の前に曝されているんだよ。多分それはね、出入口という感じが少しもしない箇所なのだ。それでいて考え方を換えると、非常に大きな出入口なんだよ。まるで開けっぱなしみたいなもんだ。」(江戸川乱歩「孤島の鬼」深山木幸吉の台詞)

(二)邪馬壹(台)国論争

 古代史ブームのピークと言えば、やはり「邪馬壹(台)国論争」が上げられるだろう。
 豊臣秀吉の侵略軍が朝鮮から強奪してきた印刷技術によって、慶長年間に「日本書紀」が印刷されると、公家、武士、僧侶のみならず町方や農民にまで広く歴史書が普及しはじめる。(このような識字状況は世界的にも特異なことであり、この列島の文化的深度に対する新たな視点が要求されている)。
 幕府の命で林羅山らが「本朝通鑑」を編んだ時、陳寿の『魏志倭人伝』を注記ではなく編年記に組み込んだことで、その全容が公開されることになった。中国文献を注記に位置づけるネガティブな取り込み方にこめた「日本書紀」編者らの思惑が、後世の深読みで日の目を見たということなのであろうか、羅山らは卑弥呼の魏への朝貢を神功皇后の事績として受け取ったわけである。
 それから半世紀ほどして水戸光圀が編纂した「大日本史」は、尊皇思想に基づく解釈により「天皇なみに神功皇后を扱うべきでない。『魏志倭人伝』は外国史料にすぎない」という理由で編年記から除外する。同じ頃、新井白石は、尊皇思想以前に歴史研究の実証性を重んじる立場から、著書「古史通」の続編「古史通或問」で考証し、邪馬台国を近畿の大和国に、卑弥呼を神功皇后に当てているが、晩年には、九州説に転じていたことが戦後の研究者によって発見されている。それまでは本居宣長の九州説が一番古いとされていた。
 宣長は卑弥呼を、神功皇后の名をかたって朝貢におよんだ熊襲などの女酋と断定し、倭諸国を九州、四国、中国に位置づけた上で邪馬台国を九州島内の一国と見ている。「古事記」や「王朝文学」に精神性の理想を追っていた目は、自らの大和像と「倭人伝」の記述内容とに落差を覚え、皇統を中国的視点による「さかしらごと」から区画する規制が働いて大和説に反対させたのであろう。
 宣長に神功皇后を騙ったとされた女酋、別の視点から女王とか巫女王と言われる女性たちを天皇家側の史書は幾人も登場させている。
(九州)
※土蜘蛛、田油津媛(たぶらつひめ)→山門県の女王、神功皇后に殺害された。兄の夏羽は兵を構えたが妹が殺害されたのを知り逃亡。(紀・神功紀)
※土蜘蛛、大山田女と狭山田女姉妹か?→日本武尊九州侵攻の頃、佐嘉川の荒ぶる神を和らげ賢女(さかしめ)と言われる。佐嘉の地名説話(肥前国風土記)
※土蜘蛛、八十女(やそめ)→杵嶋郡、嬢子山に住む女酋、景行天皇に滅ぼされた。嬢子(おみな)山の地名説話。(肥前国風土記)
※土蜘蛛、速来津姫(はやきつひめ)→景行に弟の健津三間が宝玉を持つのを白状、弟は攻められ宝玉を没収された。彼杵郡の地名説話。(肥前国風土記)
※土蜘蛛、浮穴沫媛(うきあなわひめ)→まだ服属してない彼女の領域に神代直が侵攻、景行に従わないので誅殺された。浮穴郷地名説話。(肥前国風土記)
※筑紫君等が祖、甕依媛(みかよりひめ)→基山に命つくしという神が居て通行人を多く殺した。彼女が祀ると和らいだ。筑紫の地名説話(筑後国逸文)
 (古田武彦は卑弥呼が(ひみか)と読めること、九州王朝に連なる筑紫君の祖とあることに着目し、卑弥呼を(みかよりひめ)に比定する見解を「古代は輝いていた」で述べている。)
(本州)
※女族、名草戸畔(なくさとべ)→神武軍は五瀬命の死後、名草村に進軍し彼女を誅殺した。(紀・神武紀)
※女族、丹敷戸畔(たしきとべ)→神武は熊野の荒波の津で彼女を誅殺、このとき神が毒気を吐いて兵士らを萎えさせた。(紀・神武紀)
※女族、新城戸畦(にいきとべ)→近隣の居勢祝(こせのはふり)猪祝(いのはふり)らと帰順しなかったので神武軍に皆殺しにされた。(紀・神武紀)
※丹波氷上の氷香戸辺(ひかとべ)→鏡のことを子供が歌うのを聞き、崇神の皇太子、活目尊に忠告、天皇は鏡を祭らせた。(紀・崇神紀)
※山城大国不遅の娘、綺戸辺(かにはたとべ)→顔かたちがよく、垂仁の祈祷で瑞(しるし)があり、後宮に入り男子を産む、三尾君の先祖。(紀・垂仁紀)
※山城の苅幡戸辺(かりはたとべ)→綺戸辺より先に垂仁に召され、三人の男子を産んだ。これらは石田君の先祖。(紀・垂仁紀)
※陸奥八たりの土蜘蛛の神衣媛(かむみぞひめ)・阿邪爾那媛(あざになひめ)→男六人の長と共に抵抗したが日本武尊に殺傷制圧された。(陸奥國逸文)
 戸畦や戸辺は原始的女王を意味する。近畿圏以外の地方は土蜘蛛ー媛と記されることが多い。これらの女性が表象しているのは各地域の部族国家を祭司的首長として束ねていた存在であり、九州では特に、兄弟姉妹の関係によって共同体の祭儀と政治の両側面を分担していたと思われる例が目立つ。
 隼人・熊襲・肥人(くまびと)・土蜘蛛・国栖(くず)・古志(高志、越)・粛慎(みちはせ)・毛人(えみしとも読む)・蝦夷(えみし、かい、えぞとも読む)などと呼ばれ、侵略の対象となった先住民族は、基本的に未開人あるいは悪党集団扱いである。
 歴史はいつも勝者の立場から記録され征服行動が正当化される。抵抗し破れた者たちの悠久の歴史は闇に葬られ、極めてまれに認識の地下道を潜って奇蹟的に伝承される。同じ敗残であっても、権力者相互の勢力争いによる敗残が悲劇として文学的な潤色を受けながら、後世に語り伝えられる例とは大きく異なる。
 邪馬壹(台)国の位置をめぐっては、明治末期に京大・内藤湖南の畿内大和説と、東大・白鳥庫吉の九州説との間で学閥的論争が起こった。論争と言えば聞こえはいいが、皇統の歴史的強化内で学問的貢献度を競っただけである。そのようなアカデミズムの閉鎖的論議の一方で、人民史観の発揚とも言うべき動きが、幸徳秋水や社会主義的研究者の間で生まれようとしたが、秋水らは大逆事件に呑まれ、大正から昭和初期にかけての急進的な知識人の歴史探求も、激化する弾圧の底に沈んでいかざるをえなかった。
 大正十一年七月、「日本社会史序論」の序文に「埋没された人民の歴史を発掘し、現代への連鎖を辿ることは、現代社会の性質を正しく理解する所以であると共に、将来の社会進化の方向を知る上に多くの貢献をするであろう」と書き、後に日本共産党結成に参加した佐野学は、昭和八年獄中で転向を表明する。彼は九州筑後山門説に立ち、四世紀前後に近畿地方に移動した勢力が、弱小の部族を併合して、原始征服国家を作り上げた可能性に言及していた。
 マルクス主義史学の渡部義通と研究を共にしていた岩田義道、野呂栄太郎は相次いで特高の拷問で殺され、渡部自身も二度捕縛されて昭和十九年まで獄にあった。このような暗黒の時代に生まれ合わせた人々の不幸の上に、今の私たちの知的興味の〈自由〉が乗っている。
 敗戦を境に閉ざされていた歴史学は一挙に熱を帯びる。その時、研究者たちの目には、「古事記・日本書紀」に書かれていることはほとんど後代の作り物だとする津田左右吉の「記・紀、造作説」が、タブーに向けられた武器のように映ったであろう。だが、長い年月のうちに日本人の心性にすり込まれた天皇幻想の岩盤は、知性の根底にも埋め込まれており、皇国史観はソフトに形を変えながら、むしろ津田史学を含む学問的な背景によってこそ支えられていった。
 やがて学界を巻き込んで一世を風靡した「邪馬壹(台)国」ブームは〈知〉の大衆化の側面を確かに持っていた。学界の体質が解消されたわけではないが、アマチュア研究家が参戦し、盛んに自説を展開し始める頃から研究領域の縮図に変化も現れ始めた。多様な仮説には論者ら自身の思想性や生き様が微妙に反映している。
 近畿大和説が奈良周辺にしっくり収まっているのに比べて、九州説の方は候補地が全域に及び、町おこしの期待に揺れる住民の思惑も絡んで、内ゲバの様相も呈したという。この現象は有名かつ多大な史料に囲まれた近畿天皇家お膝元の余裕と、中央権力に従属を強いられてきた地域性の差でもあるだろう。
 近畿大和説は、奈良纒向遺跡を中心とする古墳文化と、鑑鏡の実証研究を基礎に、多くの考古学者の指示を受けて定説化の勢いであり、学界の主流はほぼこの説にかたまってきているように見受けられる。新聞にも先日「卑弥呼の墓?4段構造か」という見出しで、奈良・箸墓古墳にはじめて研究者らの立ち入り調査が入るとの記事が出ていた。全集形式の立派な装丁本は大抵この論旨の流れで書かれている。私は判官贔屓というわけではないが、どうも学問的確信めいた主流の論調には違和感がつきまとう。
 水野祐は、「魏志倭人伝」の記述を古代航海上の経験に基づいた記載で、里程記事は信頼出来ないが、方位はそのまま信頼すべきものとして、邪馬壹(台)国を武器型(銅剣銅矛)祭器圏の九州筑後山門郡に成立した国家と見て、銅鐸祭器圏の近畿大和には別の原大和国家があったとしている。
 その上で、紀元前二世紀頃、朝鮮半島南部に入った騎馬民族が北九州に渡来し狗奴国を建国、三世紀後半に女王国を倒して九州を統一、五世紀初頭に東遷して難波に入り、原大和国家を征服して統一国家を樹立した、その後王朝は雄略の死をもって跡継ぎが途絶えた為、葛城氏との対抗上、大伴大連金村が越前三国から迎えた継体を擁立して新たに王朝を建てたとする。
 一、崇神〜仲哀(200年〜362年)↓呪的原大和国家、司祭〜政治君主。
 二、仁徳〜雄略(363年〜499年)↓征服王朝、騎馬民族系。
 三、継体〜……(500年〜現在まで)↓統一王朝、現在の天皇はこの系列。
 この三王朝は血統的な関係がなかったのに、律令制統一国家確立期に系譜的な擬制がなされた、というのが氏の王朝交替説であった。江上波夫らの騎馬民族征服説とも部分的には重なる。
 江上は日本民族の成立と日本国家の成立を厳密に区分すべきだとし、統一国家の成立過程を高句麗と起源を同じくする夫余族・辰(秦)王朝系騎馬民族による征服活動に見ている。日本はモンスーン地帯における島嶼で唯一農耕民族の上に騎馬民族が建国した国家であるとする。論拠として四世紀末頃から五世紀初め頃以降、その統治形態や文化的側面のほとんどに騎馬民族的特性が顕著である旨、内外の文献や考古学的史料から実証しようとした。また、統一国家成就以前の西日本侵入の時までさかのぼって、日本建国の創業時期と認めるべきだと言う。これに対して、日本独特の前方後円墳の発展形態は、前期と後期が断絶していないので、造営者の同一性を示すから、他民族の侵入などなかったとする反論が、主に近畿大和説の学者から発せられている。
 当時の東アジアの流動的な政治情勢を踏まえた水野や江上の展開には、かなりの説得力を感じるが、他の多様な仮説全般に言えるように、ミッシング・リンク(系統付けの史料的空白)の壁は厚く、学界の支持は、現在それほどでもないようである。巨大古墳や豊富な発掘物の〈雄弁〉に支えられた近畿大和中心学説の安定性を誇示する情勢が、ますます顕著になっている。
 しかし、近畿大和説に万人を納得させる根拠も存在しない。考古学的史料の語る文化的発達が、即、邪馬壹(台)国の位置を語るわけではなく、「記・紀」をはじめ日本側史料には「魏志倭人伝」に対応する記事もない。
 松下昇に直接この論争について聞いてみたことはなかったけれども、幼少期に大和地方の古代遺跡の中でまどろんでいた記憶を懐かしそうに語ったことがあった。身近な共闘者の主張から察するに、大和説だったと思えないこともないが、おそらくは、遺跡に触れながら、卑弥呼の時代よりもっと古い超古代文明の余韻を感知していたのではないかと思われる。

(三)「多元史観」登場の意味

 「南至投馬国水行二十日、官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日、陸行一月』(南、投馬(つま)国に至る。水行二十日。官を弥弥(みみ)と曰い、副を弥弥那利(みみなり)と曰ふ。五万余戸ばかり。南、邪馬壹国(やまいちこく)に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月)
 「魏志倭人伝」の行程記事について、近畿大和説に立つ多くの論者は「九州北岸から『南へ舟で二〇日間で投馬国』さらに『南へ舟で一〇日、陸路を一カ月で邪馬壹(台)国』と解釈し、『南』は『東』の書き誤りで、九州北岸から『東』へ舟で瀬戸内海または日本海を二〇日間で投馬国に着き、さらに『東』へ舟で一〇日、あと陸路を一カ月行った所が奈良付近の邪馬台国だ」と読む。
 三世紀に大和の権力が北部九州まで掌握していたのなら、人・物・馬(?)もその地域間を行き来していたはずである。古代人の移動能力もみくびってはいけないだろう。道路条件が悪かったにしても舟まで使う行程にしては水行十日、陸行一月は時間がかかり過ぎる。誰でも感じることだから、近畿大和説は、記述者の陳寿と倭国側報告者をアホ扱いして、自説に沿うよう更に日数などを〈改作〉しなければならなくなる。あるいは、陳寿の動機を当時の情勢から憶測して、距離は大げさで「里程はいい加減」という判断を下す。
 特に方位問題は、簡単に記述の「誤り」とは言えない。「天子は南面(北を背に)す」という古代からの権力直結の習慣に生き、紀元前1200年頃には方位を知る指南車まで発明していた中国伝統下の官吏陳寿が、結果的に正史にならなかったにしろ、公式文書をめざす上で方角を誤って記載するとは考えにくい。また国名表記も、漢字の国の官吏の記載をこちらの思惑に引き寄せて、誤記と断定するのは安易に過ぎるのではないか。
 「魏志倭人伝」の記述を『南は東の誤り』、『邪馬壹国を邪馬臺国=邪馬台国の誤りでヤマトの音を表す漢字表記である』などと〈改作〉を重ねる一方で、考古学的知見から、大和は当時の文化の中心地域だから、中国側史料に現れた政治権力も、近畿大和地方にあったにちがいないと短絡する危うさに乗っていることが分かる。
 このような学界のやり方への、基本的疑問から出発した〈アマチュア〉研究家古田武彦の登場は、日本の史学界にとって画期的な意味を持った。
 彼の論証は明快だ。「区間里程の総和は、総里程となる」という基本を踏まえ『水行十日、陸行一月』を部分行程ではなく、女王の都に至る総日程だと読む。井上光貞や張明澄等は「漢文の文脈上そう読めない」と批判したが、「では部分行程にした場合、どのようにしたら、区間里程の総計が総里程になりうるか?」と再反問している。
 また、あたうかぎりの論証を経ながら、「陳寿の記した里程は、秦・漢の長里(一里=四三五メートル)ではなく、魏・西晋朝時代、自国の先行王朝に当たる周朝の制に復古した短里(一里=約七五メートル強)によるのだ」という里程単位論を提起した。前代未聞の学説に学界の風当たりは強く、「空想ないし捏造」(「魏志倭人伝」山尾幸久)とまで批判されている。
 古田史学は、七世紀中葉の「白村江の戦い」をはさんだ「乙巳の変」(蘇我入鹿暗殺)や、「壬申の乱」(天武のクーデター)の把握に関しても、官制的通説に真っ向から挑戦している。根底には、「魏志倭人伝」の読みに発した「九州王朝」の発見があり、「古事記・日本書紀」が九州王朝史書からの転用に満ちているという問題のあぶり出しがある。
 他の学者からのまともな反証は見当たらない。どんなに受け容れがたい仮説でも論証には論証で対応するのが〈学〉というものだと思うが、相手にする価値もないと言わんばかりの無視はいかにも不思議だ。
 私見だが、およそ専門分野の実証困難な意見対立には平均化の力学が働き、邪馬壹(台)国問題も、それぞれの説の含みに分流と交配が生じてくる。
 (九州説)
(1)律令政権が確立するまで日本列島内の主要国家である。
(2)九州で成立した大和国家の前身である。
(3)早い段階で別の勢力によって吸収ないし征服された国家である。
 (近畿大和説)
 Α・大和に成立した国家の過渡的形態である。
 Β・外部から近畿地方に入った支配層による当時の政体である。
 C・後期大和政権によって征服ないし吸収された先行国家である。
 (2)(3)ΒCは微妙に主流Αの周辺をめぐり、(1)は極論として黙殺される。
 外国史書に記載された人物を、無理矢理、日本側史書の人物に結合しようとする手付きは注意深く見たほうがいい。卑弥呼を大和朝廷側登場人物の誰か(神功皇后等)に比定しようとするのもそうである。その意味では、古田が卑弥呼をミカヨリヒメに見たてるのも、必然性は感じるが、あまり感心しない。
 「魏志倭人伝」に限らず、「宋書」などに出てくる五世紀の、いわゆる「倭の五王」を、応神から雄略までのいずれかに比定する定説とやらもまゆつばものである。
 水野祐でさえ実際は「六王」だったとして、讃=仁徳、弥=履中、珍=反正、済=允恭、世子興=木梨軽皇子、武=雄略と比定している。
 古事記や日本書紀のこれら各天皇紀には、中国への貢献記事・関係記事はほとんど見当たらない。一番確かだと言われている武=雄略?が、中国皇帝に送った「上表文」に対応する事実も「記・紀」には無い。中国皇帝への「上表文」は当時の編纂者にとって「国辱的だから省きたい」もしくは「無視できる程度の事実だ」とでも言うのだろうか。仮にも天皇の外交事績なのである。ここで先入観なしに見えているのは「倭の五王」は「大和の王」とイコールではないという事実にほかならない。
 元はと言えば、『倭』の字を、時代時代の知識人を動員して『ヤマト』と訓読みさせる作為の累積こそ、赤を白と言いふくめてきたに等しい。近畿大和説・九州説とも、論争の決着以前に、今も自らの学問がその流れの延長上にあるのではないかという自問は持った方がいい。
 外側から『倭』、『倭種』、『倭人』などと呼ばれた種族は海人族と稲作民の包括種族として、日本列島だけでなく揚子江南岸地方や朝鮮半島内、特に南部まで広く居住し、東アジアの情勢に対応しながら移動を繰り返していた。中国古文献(山海経・論衡、等々)には紀元前から登場する種族集団の名称なのである。
 『倭人』国家について、七世紀頃の「旧唐書」に次のような記事が見える。
 「日本国は倭国の別種なり。その国日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す」。「或は曰う、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為すと」。「或は曰う、日本は旧小国、倭国の地併せりと」…。
 古事記においては『倭』で統一され『日本』という文字は使われていない。日本書紀の段階に至って『日本』という文字が天皇の称号などに使われ『ヤマト』と訓読みされてきた。『倭人』が建てた唯一の国家の発展形が、天皇家が建てた『日本』即ち『ヤマト』だというプロパガンダの根深さを思い見るべきである。
 このプロパガンダは日本の〈学〉の細部に及ぶ。例えば、「隋書、タイ(人偏に妥と書く)国伝」は、日本側でずっと「倭国伝」と読みかえられてきた。
 古田はこれに対して、唐の天子に当てた親書において「性は阿毎、字は多利思北弧」が「日出ずる処の天子」と自称したことを、中華的大義名分に反すると受け取った唐側は、「倭」に似て非なる「人偏に妥」の字をもって、唐朝の公定史書「隋書」に記載する際の国名に当てたとしている。「人偏に妥」の字による国名は同書に九回表記され、六〇八年以後「此後遂絶」と結ばれている。
 この字を当てられた「多利思北弧(タリシホコ)」の国こそ、漢・魏・西晋と継続して南朝側の中国と国交を結んできた「九州王朝」であり、七世紀に初めて北朝系の唐に朝貢した大和の「倭」とは別の国家だとした。
 現段階で確実に言えることは、古田を頂点とする九州説が必然的に存在することで、近畿天皇家を中心とする国家の発展段階論、あるいは天皇家による早期統一国家成立論の根拠は極めて怪しくなるということである。少なくとも弥生時代から古墳時代への過渡期である西暦三世紀、国家間政治の表舞台に登場するほどの列島内政権が大和政権以外に存在した事実を突きつけている。また、単に九州に一つ在ったというに止まらず、大和朝廷へ一元化する日本国家成立の概念を解き放ち、各地の歴史的時間性を対等に問い返すテーマとして浮上させている。
 網野善彦も、近畿天皇家による日本国家の成立は七世紀後半であり、二万年来の東と西の相違や列島各地の差異を、古墳を中心とした進歩史観〜発展段階論によって支配者の歴史的視点に解消してしまうことへの警鐘を鳴らしていた。また、「まさしくこの国家の形成の過程で、天皇という称号が定着するのですが、これまでその時期は推古朝以来という説が主張されていました。けれども、最近は、天皇という称号が安定的に用いられ、制度的に定着するのは天武、持統朝—浄御原律令の制定のころで、厳密にいえば持統からだというのが、古代史家のほぼ通説になっていると思います。(中略)しかも、大宝律令のできた七〇一年に遣唐使が中国大陸に行くのですが、その時の使いは『日本』の使いであると唐の役人にいっています。つまり『日本』という国号も、これまで推古朝とも考えられていましたが、やはりこれも最近の説では七世紀の後半、律令体制の確立した天武・持統のころ、天皇の称号とセットになって定まったと考えられています。これも大変大事な点で、このときより前には『日本』も『日本人』も実在していないことをはっきりさせておく必要があります。その意味で縄文人、弥生人はもちろんのこと、聖徳太子も『日本人』ではないのです。」(日本の歴史をよみなおす)と言い切っている。
 アイヌと沖縄、あるいは東北や南九州のみならず、「記・紀」が全く触れていない近畿地方を中心とする銅鐸文化圏、あるいは出雲に幽閉された「大国主命」に関わる近畿地方の先行国家の存在をも、実質的に天皇制に解消不可能な〈外部性〉として捉える必要があるのは言うまでもない。
 史料の指し示すところを見つめ、わき上がる率直な疑問を多方面から検証する「多元史観」の読みこみは、「非常に大きな出入口」をわたし達に指し示しているのである。
 しかし、戦中派の苦渋をこめて古田は記す。
「“永遠の過去から、天皇家は日本列島中、唯一の王朝なのだ。もし、現象的に天皇家の存在が日本列島中の一地方の一豪族のように見えていた時代がつづいていたとしても、問題ではない。それは「天皇家の全日本列島統治」という大義名分を、他の九十九パーセントの地域の人々がただ知らなかっただけにすぎないのだ”と。これが天皇家の弁証法だ。つまり、中国を中心とする東アジアの国際社会で、認められていようが、いまいが、あるいはまた、日本列島の中で具体的にどれだけの部分を統治していようがいまいが、そんなことは一切問題ではない。要は“日本列島の主人公は、はじめから天皇家だった”という根本観念から日本列島上のすべての歴史展開を見る、—これが『古事記』『日本書紀』を貫く根本“秘儀”であった。」(失われた九州王朝)

(四)偽書群から(へ)の視線

 明治期後半から大正デモクラシーを経て、昭和初期の文化的隆盛が一気に奈落に突っ走ったように、天皇制に依拠した権力の暴走に対して、学問はあまりに無力だった。だがそれでも、学問を介した知性の向上と真の大衆化を信じる以外に希望はないのかもしれない。
 古田武彦の提起は、単なる『邪馬壹(台)国』九州説を超えて、先入観のない一般読者の支持も多かったが、専門家は論証内容より彼の普遍的アマチュアリズムのようなものをうさんくさいと感じているのかもしれない。
 江戸時代には自由に論議されていたのに明治以降は学界の関心外におかれている「九州年号」の問題もそうだが、学界からは偽作が確実視されている「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」に歴史観の必然に導かれて接近した古田は、九州説の学者達(安本美典等)からも冷笑されている。
 「東日流外三郡誌」は、伝承者の家系にあたる和田喜八郎によって一九四九年に発見されたとされ、七〇年代には寛政年間に成立した文献の写本として登場した。当初から古書発見を偽装した創作にすぎないとして真偽をめぐる論争があいつぎ、八〇年から九〇年には雑誌テレビなどで取り上げられ大反響を呼び起こした。和田氏が九九年に亡くなるまで五〇年の間に、ダンボール二〇個ほどの文書が続々出てきたという。彼の死後、偽書派の行った調査で数々の矛盾が確定的となり、公的機関も偽書説を公表するに至った。2007年に古田ら真書派は寛政原本の発見を発表したが、その後も偽書説が有力な状況は変わっていない。
 反大和的記述によって有名となったその内容は、ウルム氷期の伝承やアイヌ色豊かな信仰や社会生活、古代以来の山丹貿易の中心十三湊の盛衰や、神武との戦闘、津軽亡命、後に先住民や中国漂着民らを組織した荒吐族(あらはばきぞく)を形成し、近畿大和朝廷の征夷行動に抵抗を繰り広げたナガスネヒコの事績を含む。〈反日〉を標榜した左翼運動に影響を与えたとされるが、本書が話題になった時期と運動の高揚期とは時代的なずれがあるので、運動退潮後の理論家たちへの影響と言うべきかもしれない。
 たとえ偽書であれ、いつ誰がどのような背景や目的のもとに、どういう思想性の表象として出現させたのかを研究する学問的意味を無化することはできない。真偽の検証対象からはずされている「古事記」にしても、成立年は元明朝(712年)とされているが、現存する写本は、室町時代の真福寺本(1371年〜1372年)が最古である。
 元正朝(720年)の成立とされる「日本書紀」も室町時代の写本しか存在しない巻が多いという。両史書とも女帝(権勢としては藤原不比等全盛)時代に成立しているのが印象的だ。「万葉集」にいたっては江戸時代の写本がそろっているのみだと言われている。
 この事実からも史料は単体で存在するのではなく、後代の注釈や解釈を含む総体の流れを包括して史料なのである。まして、歴史的記述の真偽判断は、主観の重力に左右され、判断主体の全体的歴史ヴィジョンに関わる。その意味では偽書扱いされている古史古伝(佐治芳彦による命名)も対等ではないだろうか。UFO問題等と同じで、常識や通説をうのみにした認識の安定性が、そのままで〈宇宙〉的真理性を担保するわけではない。つまり、あらゆる可能性に対して認識の扉は開かれているべきなのである。
 佐治芳彦によれば、学界未公認の古史古伝には次のようなものがある。
※竹内文書↓武烈朝、竹内宿禰の孫平群真鳥が翻訳した神代万国史。
※九神文書↓天児屋根命時代の神代文字を藤原不比等が改編した出雲正統論等。
※宮下文書↓秦の方士徐福が神代文字を漢字化した富士高天原王朝史等。
※上記↓頼朝の庶子豊後の国守大友能直編集の弥生版百科事典。
※秀真伝・三笠紀↓国常立尊〜景行天皇事績等の秀真文字による長歌体。
※東日流外三郡誌↓寛政年間成立、反大和的叙述を含むアイヌ的伝承等の記録。
※物部文書↓天皇家より古い家系を示す書。
※安倍文書↓唐で客死した安倍仲麻呂の家系や古代ユダヤとの交流。
※カタカムナ文書↓カタカムナ文字で書かれた古代科学書。
※先代旧事本紀大成経↓江戸時代の禁書目録トップの書。
 これらに共通する核として、(1)ほとんど古代権力闘争敗者側の家系に伝わる。(2)神武以前に数十代のウガヤフキアエズ朝を記す。(3)さらにそれ以前の王朝ないし神朝をおく。(4)王朝交代期には必ず大異変。(5)交代を文明の交代と読みかえうる。(6)東日流外三郡誌とカタカムナ文書を除き、体制側史書よりも万世一系の皇統謳歌に懸命。(7)体制側の弾圧に備えた偽装性。(8)本来の日本神話の海洋性を示す。(9)偽書説の根拠ともされる神代(古代)文字の使用。以上九項目を上げている。
 西暦五七年に委奴国王が朝貢して金印授受があり、三世紀の卑弥呼の時代には中国皇帝が詔書を出している。伊都国に置かれた一大率は対外的窓口にもなっていただろうから、中国や朝鮮半島との外交上、少なくとも政権中枢には、かなり前から中国ないし朝鮮半島との共通文字使用に応える人材が渡来、もしくは育っていたと考えるのが自然である。通説では日本の無文字の時代は長く、「隋書、タイ(人偏に妥)国伝」には、六世紀に百済から仏教が伝来するまで日本には文字がなく、木刻や縄結で代用していた旨の記載がある。これは一般庶民の間に漢字の普及がないことの指摘に過ぎないだろう。
 また、広く普及するまでに至らないにしても、情報を記録しておく必要に迫られた階層が独自の文字段階を踏んだ可能性を皆無と言い切ってよいのか。特に宗教の領域には注意が必要である。古代神道のみならず、多様な宗教の歴史は卑弥呼や天皇家の時代をはるかさかのぼる。さらに宗教は、古代において科学を包括していたと考えられる。天文や気象は宗教的な回路を通って生産過程に活用されたにちがいない。科学的記録が何らかの文字的な記録手段を必要とするのは必然であり、カタカムナ文献のようなものが他にもありえた可能性は大きい。天皇家が加担するまで、古代世界はナイナイづくしの未開地だったと想定したい心理が「古事記」や「日本書紀」を通して透けて見える。先住民族を土蜘蛛などと言い放ち、被征服者を野蛮人としてなめきった態度は、様々な文化的位相に湧いて出るのであり、中華思想などの先進性を誇る文明の発する言葉は輪をかけてそうである。文化的既得権の優越性を解体することのない所謂「通説」が神代(古代)文字の存在を全否定する根拠は希薄ではないのか。
 もちろん、今記したことも恣意的見解であり、架空や空想の類とみなすのもまた自由である。問題は、通説や常識の水準もそれほど確かなものではなく、まして権威として流通するものは、人類にとって重要な何かを抑圧しているのではないかという自覚の必要性である。それぞれの自由な表現が時代の何を言い当て、どのようなテーマを開示しているのかということにある。
 松下昇は、「UFO」や「火星の人面像」や「カタカムナ文献」などの、正規の学問対象とみなされない領域の問題を楽しみながら、驚くべき発見と幻想的解放感を表現過程に埋め込んでいる。

(五)〈天〉〈国〉二元論の世界像

 半世紀近く前の拘置所付せん付きの本を取り出してみた。
 「『古事記』の編者たちの世襲勢力が、かれらの直接の先祖として擬定した〈アマ〉氏の勢力は、大陸の騎馬民族の渡来勢力であったかどうかはべつとしても、おそらく魏志の記載している魚撈と農業と狩猟と農耕用具などの制作をいとなんでいた部族に関係をもつものであったと想定することができる。それにもかかわらず太古における農耕法的な〈法〉概念は〈アマ〉氏の名を冠せられた(天つ罪)、もっと層が旧いとかんがえられる婚姻法的な〈法〉概念は土着的な古勢力のものになぞらえられている(国つ罪)。この矛盾は 太古のプリミティブな〈国家〉の〈共同幻想〉の構成を理解するのに混乱と不明瞭さをあたえ、幾重にも重層化され混血されたとみられるわが民族の起源の解明を困難にしている。」(共同幻想論・起源論)
 「〈国家〉とよびうるプリミティブな形態は、村落社会の〈共同幻想〉がどんな意味でも血縁的な共同性から独立にあらわれたものをさしている」とする吉本隆明は、「魏志倭人伝」に記された邪馬壹(台)国の官名と「古事記」に描かれた初期天皇群の和風名称とを対比して、その音の〈一致〉に着目し、「古事記」の編者らが自国の起源として描出したのは、たかだか邪馬台国的な新しい段階の国家であるにすぎないと述べている。
 つまりその程度の国家モデルにしか遡上できない浅い自国の歴史を盾に「万系一世」などとはしゃらくさい、と彼は言っているのだと思う。モルガンーエンゲルスの国家起源論に対峙しながら、辺境日本の民譚や神話を掘り進め世界思想の次元に攻め入ろうとする当時の吉本の〈野望〉にとって、卑弥呼が九州であろうが近畿であろうが関わりなかった。民譚や神話から幻想性構造の原型モデルを抽出して、幻想領域の転移プロセスや段階性を、言語面に写像してみせることが何事かであった。同時に、日本の歴史学に対しては、統一部族国家の成立をもって日本国家の起源であるかのように競う発想や、神話的記述に接近するさいの基本的誤謬を批判しておけばよかったのだ。
 「〈神話〉を解釈する場合のもっともおちいりやすい誤解は、それがある〈事実〉や〈事件〉の象徴であるとかんがえることである。そして空間的な場所や時間的な年代を現実にさがしもとめ、〈神話〉との対応をみつけだそうとする。しかし〈神話〉に登場する空間や時間は、ただ〈共同幻想〉の構成に関するかぎりにおいてしか現実にたいする象徴性をもたないということができよう。その結果えられるものは、ある場合に地誌的に一致する箇所があるかとおもえば、同時にとんでもない矛盾にもぶつかる等々のことである。」(共同幻想論・罪責論)
 このように彼は言っているけれども、あらゆる権力的思想水準を原理的に超えることが緊急かつ最重要であることはもちろんだと思うが、あえて「虎穴に入らずんば」の位置を取り、〈学〉の名によって累積してきた権力的プロパガンダの具体的項目の一つ一つに論証を対置して、新事実の発見を試みる古田のような接近を、いちがいに〈誤解〉で済ますことはできないのではないか。
 近畿天皇家一元論の特異な論拠は、〈天〉〈国〉二元論を支配原理に繰り込んで存在しているところにある。これを祭祀権力と政治権力の分離や、支配層と土着勢力の規範区分に、即、当てはめることはできないようになっている。
 「魏志倭人伝」や「記・紀」がとどめた国家像の前の段階はどのように想定しうるのだろう。
 道教・儒教・仏教といった高度の抽象性を持つ宗教思想が入ってこない前は、日本列島周辺地域は、それぞれの素朴な宗教性を持った〈原住〉種族ないし渡来系種族が何重にも混血を繰り返しながら、人々は何にでも神性の宿りを見出す共同幻想の長い長い段階を潜っていた。どの神性も人間に対して両義性を持っていたが、善神悪神の区別は確定的な概念ではなく、畏怖し、尊崇し、ただ祀ることで鎮め、恩恵を願うべき対象であった。
 特に恵みをもたらすと信じられた神は共同祭祀の中心となったけれども、裁く神ではなく、霊的エネルギーの集中的顕現として、祀る側の物心の条件と緊密な対応関係が意識された。人間の意識的な罪も、無意識的な科も、心身に付着した負のエネルギー作用であり、霊的なエネルギーによって禊ぎ祓うべき汚れであった。
 神道的に言えば、現世(うつしよ)は霊的エネルギーに満ちた目に見えない幽世(かくりよ)の映し現れた世界であると考えられ、他界は天上や地下にあるのではなく、海の彼方や山の奥にあると考えられていた。死者は清められると村落に隣接する山に住む祖霊神となり、春には田の神となって実りをもたらし、秋になると山の神として子孫を守るという民俗的信仰が今も各地に伝わる。
 部族内・部族間の関係が複雑になってくると、それに伴い幻想性は未体験のストレスにさらされ、その打ち消しとして、より求心的な宗教意識を疎外するようになる。神々の中から、或る神性が特に共同体の主神として共同幻想の中核を形成して現れる。古くはおおらかに崇められた日神であったり、海神であったり、祖霊神であったり、動物であったりした。自然との関係概念の特色によって、この段階に安住する部族も多数想定される。例えば北海道のアイヌ部族国家等。
 各共同体特有の生産様式にも規定されて、次第に神格の輪郭は明度を増していく。その強度に伴い、憑依的素養を持つ人格が、主神の降臨の依代として、共同祭祀の中心により強く関係付けられる。神性が人格神の傾向を帯び、司祭的人格に同化して顕現するようになると、社会と司祭的人格との仲介者を、司祭の血縁に連なる関係性から外化して、政治的幻想性の核を形成するようになる。(兄弟姉妹の権力分担等。)
 しかしこの段階でも、「出雲風土記」の「国引き神話」のように、神々は霊的エネルギーを駆使して人々の目線で懸命に働いており、祭儀と現実的利害への対処位相は相補的で、それ故に、建設者は主神と一体的な最高の尊崇対象である。〈天〉〈国〉の階層的神概念が自然生成する条件は未だないように思える。神々の往還する現世と幽世は〈見える〉〈見えない〉という関係において、複層的ではあったが階層的ではなく、空間性としては異境的であり、水平方向に感受されていた。
 ところが「記・紀」に現れる世界の空間イメージは、高天原と芦原中国を垂直方向に関係付け、死者の行く所も地下方向のイメージを喚起される。何らかの外圧を想定しないと、日本の土俗的宗教観念の発展延長上に、〈天〉〈国〉二元論がうまれるという構造を考えにくい。  大陸的な垂直方向の世界像を持つ宗教観念の交差か、住み分けの境界を越えて水平移動してきた勢力が、自らの来し方を、垂直方向に転倒して、神々の階層性を表現し、その上位に自前の神を立たせなければ、先住勢力の宗教的権威に優位性として対抗できない段階が、「記・紀神話」に表出されているのではないか。
 本来近畿を含む列島の広い地域に発生していた宗教性の一元的頂点であった大国主が、〈天つ神〉の子孫に国を譲って「幽冥主宰大神(かくりよをしろしめすおおかみ)」となり、自ら現世の守り神に降格したことで、それまでの現幽世界像は解体し、天照は現世支配者の主宰神であると同時に、現幽世界像から超越した〈天つ神〉となる。そして、各地に育っていた古神道を含む宗教性は、大きく旋回を強いられることになったのではないかと想定される。山蔭神道・神主山蔭基央は言う。
「しかし、霊的な現象は、すべて大国主命の司配にあることは知っておかねばならない」(神道の神秘)
 神無月、神々は皆大国主命のもとに集まるという伝承は、古来から人々と共に居た神々のパフォーマンスである。「記・紀」の「国譲り神話」の論理性は、天皇家の宗教が日本列島に自然発生したものでないことを暗に物語っている。
 〈天つ神〉概念は〈国つ神〉との直結通路を切断する。最高神の依代にして、そのまま現人神という天皇幻想が断面を塞ぎ、支配関係の矛盾は止揚に向かわずに霧消して、権力性に伴う責任の一切を空無化する装置となる。
 であるとして、「古事記・日本書紀・常陸国風土記」のヤマトタケル伝承を対照しながら水野祐の述べる認識の背景は重く、かつ暗い。
 「一般に、征服者が被征服者に対して自分たちの伝承を強制的に伝習させるということはなく、むしろ被征服者のほうで、征服者側に伝わる有名な物語をもってその神話、伝説を故意に変形させ、遠い過去には両者のあいだに歴史的な修好関係のあったことを主張しようとする傾向がみられる」(日本古代の国家形成)

(六)「アイヌ民族抵抗史」のこと

 「邪馬壹(台)国」のテーマが人々のロマンをどう刺激しようと、所詮は、国内外の支配関係の描写であり、逆倒的に個々の運命に桎梏としておおいかぶさっている国家の歴史像にほかならない。
 卑弥呼は魏の皇帝に「男の生口四人、女の生口六人」を班布とともに奉じている。物のようにやりとりされる人間の有り様はこの社会が既に侵略的・階級的国家段階にあったことをはっきり写している。
 採集・農耕・狩猟・牧畜など各生産対象ないし生産様式の求心力に、技術や文化の遠心力がつり合っている均衡状態が壊れていくと、〈人〉の階級的な分岐が始まり支配機構が物心両面から形成されていく。後戻りできない〈人〉という種の持つ歴史的法則と見える力学に対して、〈人〉の幻想性は虜囚であるか加担であるかしかないのであろうか。選択不可能に見える法則自体を反省的に超えようとする幻想性構造の歴史的〈現在〉に、まだ発露していない〈人〉という種の法則性がかすかに息づいているのも確かだと思えるのだが…。
 新谷行の「アイヌ民族抵抗史」は、今まで触れた史学的記述とは一線を画す。それは次のような動機を発信源として書かれている。「歴史は『陰』と『陽』の両電極の激しい闘争の上に成り立っている。『蝦夷』という激しい抵抗体があったからこそ『蝦夷征伐』という歴史的事実が存在した。これを天皇国家、すなわち征服者の側からだけの史料で読み過ごしては歴史の真実は浮かび上がってこない。抵抗体の実体を明らかにしてこそ、つまり、激しく火花を発する両電極の衝突の実相を明らかにしてこそ、真の歴史をとらえかえすことができる。だが、そうはいっても、被征服者の存在と声は、征服者の記録のなかからしか探りあて聞くことができない。征服者の一方的な記録、それにもとづく堆い歴史学者の『研究』、それを書きかえていくために必要なのは、征服され、抹殺された者の目である。その視点から、歴史の意味を奪還しなければならない。」
 この作業が困難をきわめたであろうことは門外漢の自分にも想像できる。北方史を追及しようとすれば、侵略の歴史となり、開拓史となる。累積され固定した史観を、学問的な実証性を保持しつつ転倒し、切開するのは容易ではない。
 新谷は「三世紀またはそれ以前より朝鮮半島から日本列島各地に渡来した民族のうち、北九州に集団的に勢力を拡充した部分が近畿地方に進出、大和国家を確立した」とする。水野祐に近い把握である。六世紀頃までに東国(関東)をほぼ掌中にした天皇国家は、大化の改新後、東北と新潟から秋田にかけて日本海沿岸諸国への侵略を開始した。先鞭を切ったのが越の国守安倍比羅夫で、アイヌ伝承文学「ユーカラ」は比羅夫軍との戦いによって生まれたと考えている。
 天皇侵略軍に対する北方原住民の闘争は八世紀半ばを境に激化し、特に百済系の桓武が781年に即位すると、侵略活動はエスカレート、対応して789年北上川付近からアテルイが反撃を開始する。坂上田村麻呂に与えられた征夷大将軍の称号は徳川幕府に至る歴代の政治権力者に、天皇家が授けるというパターンが踏襲されていく。侵略軍の方法は陰謀・脅迫・殺戮を懐柔策の中心に据えた酷いものである。
 本州のアイヌ民族が反乱を繰り返しながら徐々に固有の生活を破壊されていくなか、北海道以北では、十七世紀末のシャクシャインの独立戦争発生の時までは独自性を保っていた。狩猟を中心とした社会の構成単位は、少数の血族からなる部落共同体であり、起源的国家の原型により近いものだったことが想定される。対して、侵略的「文明」の行動原理は、土地を獲得し確保するための征服と略奪戦争であり、そのための武器と政治支配技術を「社会発展」の動力源とした。
 1456年、アイヌの少年が和人の鍛冶屋に刺殺された事件を契機に、翌年コシャマインを中心とするアイヌ部族が一斉蜂起、当時の支配権力だった松前藩を一時窮地に陥れた。指導者が倒れても民衆は屈せず、その後八〇余年にわたる抵抗を繰り返した。
 江戸期に入り、松前藩の家臣に、知行地としてアイヌとの交易権が与えられると、奥地まで入り込んでの和人による直接搾取が始まる。過酷を深めていく時代状況を背景に、1669年、シャクシャインの独立戦争がシベチャリ川(現在の静内川)の一角から勃発する。繰り広げられた勇敢な戦いにもかかわらず、藩側の策謀に屈して、アイヌ軍は鎮圧され、アイヌ側に加担した和人四名も処刑された。
 一方、ロシアの南下は十七世紀半ばから始まり、択捉島まで及ぶ。ロシア商人と和人の板挟みの中で、生計に困って妥協的な対応に流れると、たちまち国後のアイヌ部落は和人によって奴隷化されていった。その状況下、1789年に国後のアイヌが蜂起した。しかし、酋長らの説得で、闘争は腰砕けになって蜂起者らは出頭する。藩は降伏した三七名を処刑したと表向き記録するが、大量虐殺の疑念も大きい。その後二八年の間に国後のアイヌは一人もいなくなっていたのである。
 幕府は、1799年から1821年まで、北海道を一時直轄地とし、対ロシア辺境防衛を目的とした撫育政策=露骨な利用政策に終始した。
 1845年以来、探検家として実情を探った松浦武四郎は、松前藩の刺客にねらわれながら一貫してアイヌ民族を友とし、和人の非道と不正を暴露していく。新谷が松浦の生き様に寄せる思いは深い。
 松浦の著書には、「三航蝦夷日誌」「秘め於久辺志」「東西蝦夷山川地理取調図」「久摺日誌」「夕張日誌」「知床日誌」「近世蝦夷人物誌」(この書が陽の目を見たのは明治四五年)がある。
 迎えた明治維新、政府は五稜郭に拠った榎本武揚らを制圧後、開拓使を設置してアイヌの併合と支配を新たに開始する。明治六年の「地租改正条令」をもって蝦夷地を持ち主のない土地、すなわち天皇の財産にしてしまう。開拓判官に任ぜられた松浦武四郎は、奸商と結託した官のやり方に絶望し、不満表明と同時に辞任、彼の辞任はアイヌの不幸に更に重い影を落とした。
 1874年(明治七)、明治政府は古代大和国家の武装植民と同質の「屯田兵制度」を設置する。1899年(明治三二)に成立した「北海道旧土人保護法」は、アイヌの人権を無視した暗い背景から生まれた。日本人が持っている精神構造の一つの表現であると、怒りをこめて新谷は述べる。近代天皇制国家は皇民化教育の強制によって、琉球処分後の沖縄と同じように、アイヌの民族性の根を徹底的に否定する政策に終始したのである。
 新谷の怒りは、江戸期の松宮観山から昭和の金田一京助を経て、現在の進歩的と言われる若い学者にまで向けられている。「私は、これら『アイヌ学者』と呼ばれる人々こそ、アイヌ民族を滅ぼすための大和民族の最後の手先だったと考える。」と書く。共生ではなく、〈学〉の名の下に民族の標本化を進める動向への批判は押さえようがない。
 「かって人は真実を伝えたことがあろうか
  かって人は真実の道を歩んだことがあろうか
  私はただ
  虐殺され
  大地に封じ込められた あなたたちの
  哭きにみちた声を感じるだけだ
  破滅を予感するけもののように
  私の魂は震え
  私の肉は震え
  私の手は荒々しく
  あなたたちの悲しみに触れようと焦る
  重き神
  フチカムイよ
  ノッカマブの丘を逆流の炎でつつみ
  わが肉を燃やせ!
  わが魂を焼きつくせ!」
        (長編詩『ノッカマブの丘に火燃えよ』第二部より、新谷行)
 若い頃「北海」という短編を書いた松下昇は、北方への思いがことのほか深かった。「母方が四国に移住させられたアイヌである」と語ったこともあった。事実のほどは確認できていないが、〈仮装〉的発言だったとしても、そのことで彼が伝えようとした〈事実〉が何であったのか、謎めいた問いかけは今も鳴り続けている。1987年、情況的かつ身体的な深刻さの中で、呟くように記された「時の楔《からの〜への》通信」の末尾に次の一節がある。
 「だが、とりあえず、原本性を、まだ文字をかかない幼児のうち、最初に原本性をもつ主体に語りかける人間(アイヌ)に手渡すことにする。」
 さらに後註を次のように結んでいる。
 「アイヌ語で〈アイヌ〉は〈人間〉を意味する。いま、あえて、このように記述(ルビ)する意味についての討論〜を歓迎する。」

(七)〈反日〉の現在

 1972年9月20日、新谷は、樺太出身の太田竜や釧路出身のアイヌ結城庄司らと共に北海道静内真歌の丘にあるアイヌ指導者シャクシャイン像を訪れ、台座に刻まれた「知事 町村金五書」という文字を削り取った。「アイヌ民族抵抗史」刊行まぎわの出来事である。
 碑文に対するアイヌ民衆の激しい反発を受け止めての行為であったが、彼自身は革命戦士きどりの錯覚とは無縁であったし、冷静になすべき課題を見つめていた。重い病による約一年におよぶ入院をはさみ、事件から二年を経過した74年10月、病み上がりの彼は突然東京で逮捕される。
 72年に北海道で頻発した様々な事件や、東京で起きた三井・三菱爆破等一連の事件が、太田・新谷・結城につながるグループ絡みと見た官憲のみこみ〜別件逮捕であるのは明らかだった。結局、この件で、削り取りを直接にはやっていない太田竜が主犯として有罪となり、アジテーターとして名の知れた太田の思想宣伝に対する司法の過剰な反応が露呈する。
 1932年、北海道留萌郡の馬喰の五男として生まれた新谷は、1979年、四七才という若さで世を去った。アイヌ民族の悲しみと晴れやかさに、詩人・歴史家として最後まで寄り添う生涯であった。
 当時、新谷らと行動を共にしアイヌ民族解放運動に関わった結城庄司は、1974年、太田竜のアイヌ革命論を批判して絶縁、後に札幌アイヌ文化協会等の役員を経て、1983年に他界した。
 政治的情況に突き出された世代の一部に、深刻かつ大きな影響を与えた太田竜は、革共同・アイヌ解放・窮民革命論・エコロジストと転進し、国粋主義・伝統主義・自然食・家畜制度反対など様々な文明批判の思想的拠点を求めつつ、後年はイルミナティ世界陰謀論に傾斜、反ユダヤ主義を唱えるようになった。2009年没。
 明治以降の日本帝国主義否定に発した反体制運動が、七〇年代に入って次第に先細るにつれ、日本国家成立のみならず、日本民族自体の否定を核に取り込んで運動の先鋭化をめざす動向が生じていた。
 共産同赤軍派・梅内恒夫が、1972年4月16日付で「映画批評」に寄稿した約六万字におよぶ手記は、そんな左翼動向の理論形成に決定的な影響力を行使することになった。(全国指名手配中、今も行方知れず。)
 梅内は、連合赤軍の山岳ベース事件を赤軍派として謝罪し、「(1)前段階武装蜂起論への過剰な固執、(2)全員集合と薄弱メンバーの強引な加入等、非合法活動の原則に違背、(3)『党』絶対視、前衛主義の悪弊露呈」、といった観点から連合赤軍を批判、森恒夫らの除名を宣言しつつ、「被植民地人民の反日感情こそマルクス主義に代わる基本原理である」と説く。国内の被抑圧人民として部落民・アイヌ・沖縄人・在日朝鮮人をあげ、日帝本国人たる日本民族は、建国以来の抑圧者、犯罪民族であるという自覚と自己否定を潜り、原罪からの解放に向かう非国民〜世界革命浪人たるべき旨を強調する。闘争の戦略ウィジョンは、「日本を戦争に巻き込ませ自滅をうながす」というものであり、もはや階級史観とか革命概念さえも否定し、日本という国家と民族の絶滅宣伝にいたる差別排外思想としてオカルトの領域にまで突入している。
 〈反日〉概念の史的根拠にさかのぼるに際しては、八切止夫の史観に着目したとされるが、本質的には両者相容れない内容を含んでいる。
 八切の「日本原住民論」は、先住民族の末裔である部落民やサンカは長い歴史を通して皇統のいずれかに繋がっており、皇室こそ原住民統合のシンボルであると想定し、アイヌは北海道にのみ居住してきた民族であるとして日本原住民とは別に見ている。また、六六三年の「白村江の戦い」に勝利して進駐した唐軍司令官の藤原氏らが、大海人(天武)を担いで傀儡政権を樹立、「壬申の乱」で旧支配層を一掃し公家となって君臨、「日本書紀」が一連の歴史事実を隠蔽歪曲するために編まれ、宗主国唐の律令制を導入して急速な中国化を謀った、とする。
 むしろ、親皇室・反中国的にも見えるこの史観が梅内らの〈反日〉的史観、国家と民族の総否定〜絶滅論に繋がっていくのは矛盾が多すぎ、通常とは異なる印象的な史観を我田に引き入れただけではないかという印象が強い。
 1972年12月、梅内的論理に共感を覚えた大導寺らは、〈反日〉を闘う者全ての共同使用という認識に立ち、「東アジア反日武装戦線」を結成、自らのグループを「狼」とした。「さそり」「大地の牙」と相次ぎ、左翼を標榜する多くの団体に影響を与えながら、「左翼=反日」というイメージを社会的に固着させていった。
 1976年3月2日に発生した北海道庁爆破事件で死刑判決が確定し、アムネスティ・インターナショナルが「冤罪の可能性が最も高い七名の死刑囚の一人」にあげている大森勝久は、一貫して無罪を主張する一方、当初は「反日亡国論」と自ら命名した思想と闘争を支持し、「もし実行犯が事件をやっていなければ私が実行した」とまで発言していた。転向後は「反日亡国論」を「悪魔のような思想」と評し、2012年末現在、獄中からの彼のブログには次のような見出しが踊っている。
「『反日民主党は「脱原発」で日本破滅を目指す』『?左翼は消滅などしておらず、正体を偽装して日本を破滅させる革命を遂行している。』『原発は十分に安全であるー直ちに再稼動せよ』2012年10月28日」
「『自民党政府は中国を「仮想敵国」と規定せよ』『3%のインフレ目標を設定して経済を復活させよ』2012年12月26日」
 これらの見出しは、「真性自由主義〜保守主義」と命名された現在の彼の立脚点を端的に語っている。今や敵となった〈反日〉勢力に対する攻撃的批判の論理型は、かって〈反日〉の立場から〈敵〉を激しく批判した型をそっくり反転させているだけである。原発の安全性を強調するのに、オックスフォード大学のアリソン教授や、ミズーリー大学のラッキー教授らの放射能安全理論を紹介して立論している断定的見解にも、太田竜や梅内恒夫に類する〈反日〉的理論の正当性を断定した方法的骨格からの変化は全く感じられない。
 「本日(12月26日)、安倍内閣が成立したが、安倍自民党政権は「日中の戦略的互恵関係」を自己批判して破棄しなくてはならない。「日中関係の改善」など拒絶しなくてはならない。尖閣諸島に直ちに陸上自衛隊部隊を配置しなくてはならないのである。そして尖閣諸島に88式地対艦誘導ミサイルを配置していかなくてはならない。南西諸島の島々にもである。」(2012年12月26日脱)
 この展開など、〜保守主義というより、むしろ「日本を戦争に巻き込ませる」「反日亡国論」の実践的煽動に見えなくもない。
 〈死刑囚〉の過酷な日常に向き合う中でアイデンティティをどう保つかという問題や生活条件の対等性を欠く関係認識を踏まえて、あえて言わねばならないのは、自分の具体的関係性の現場で、ぎりぎりの選択を迫られる場合を除いて、歴史的現在における他者や事実の切り取り、括り、つまり認識の内在的編集過程において、直ちに〈義憤〉を連結させてはならないということである。連結すれば必ず短絡的な世界理解に行き着く。〈敵〉〈味方〉二分法世界の判りやすさに思想(行動)原理を拘束されることになる。それはまさに〈敵〉の論理への全面的屈服にほかならない。
 〈義憤〉に駆られた倫理観の引き絞り方は、揺れやすくナイーブな、そうであるが故に、世俗に背を向けざるをえない心性の倒像となって社会的事象に結びつきやすい。突出時のエネルギーが情況性とかみ合い、群の動向に影響を持つ時代もありうるが、大抵は倒すべき〈敵〉の根拠に呑み込まれてしまう。世界はそんな事例ばかりだ。人間の属性や現れの多様さをあるがままに見つめ、止めようもない〈義憤〉に時間性を繰りこんで存在するのは確かに苦痛〜不快であるけれども、そこで問われている忍耐の内実にしか、歴史の底に沈められている被抑圧的な死者や生者との連帯に通ずる出入口は無いのではないか。(松浦武四郎が、新谷行が耐えて回路を創出しようとしたように…。)
  無期懲役刑で在獄三八年目を迎えた黒川芳正のブログは、大森とは全く論調が異なっている。
「[1]死刑を廃止して、では替わりにどういった刑にすべきかを考える場合、現行の無期刑をそのままにするならば、終身刑(仮釈ナシ)以外ないだろうという考えが出て来るのもやむを得ないでしょう。しかし、もし無期刑じたいにも本当は問題があって、 廃止した方がいいとなれば、話の流れは変わって来ます。
 [2]近代刑法の理念からして、無期刑じたいにも本当は大きな問題があるのです。無期刑においては、無期囚を、意図的に仮釈を与えず死ぬまで拘禁しておいても違法とはされず、その意味で、受刑者を矯正・更生させて社会復帰させるという行刑理念に反するものなのです。というのも、近代刑法の理念は、社会的再包摂であり、自由の永久剥奪ではなく、一定期間後の自由の回復を保証するものだからです。その意味で、仮釈制度があるとは言え、無期刑は不合理な刑であるということは、間違いありません。」(2013年2月11日 死刑論議ー代替刑と無期廃止) 
 後続十項目まで、整然と死刑や無期の問題を中心に刑法批判が展開されている。対象を絞って論拠は明快であり冷静である。民衆史観に立つ左翼歴史家をも「征服民の犠牲の上に立つ犯罪国の構成員である」と断じ、〈反日〉的ゲリラ行動を積極的に肯定していた論理性からの転調を示すものの、その転調の振れ幅は安定的な領域に止まっている。
 大森・黒川両氏の開示している〈反日〉思想からの微妙な脱却〜転向の型は、現在の表現状況を両側から挟み込みながら、共通の〈義憤〉に突き動かされていた時代の捉え返しをするどく迫っているように思えてならない。未だ対象化されていない〈反日〉の本質的テーマが時代の硬直的な幻想の壁の向こう側に〈収監〉されたままである。

(八)憲法論議と古代史

 古代史学の諸説入り乱れる中、研究者の真摯な疑問の数々も、〈大学〉という学問的権威の壁にはじき返され、奇抜な恣意的仮説一般として一時的にもてはやされ消費される。学界主流は相変わらず「近畿地方に発生した大和朝廷勢力が着実に文化的発展を遂げながら列島を統一し、巨大古墳に象徴される高度な国家を早い段階で完成させた」という大筋の図式にフィードバックする。歴史博物館を覗いても多くはその類の説明に収束している。
 「高天原に天降った神々の直系を軸に、他の諸々の渡来民族の血を吸収して出来た選ばれた民族の国だ」という跳び越しの国家観が、考古学的発掘や古文献の解釈によってソフトに読み換えられているだけだという感が否めない。
 こういった国内の学問的土壌を都合よく吸収しながら、権力的プロパガンダのエキスが、現首相をふくむ政治家の頭の中や社会的諸相に顕現してくる。しかも愚かな選民意識や崇拝願望ほど大衆の漠然とした不安や不満に取り憑きやすいのだ。
 憲法改正に突き進みたい政治勢力の本音は3点に要約できる。
(1)・世界政治の実情に沿った国権発動形態の規制緩和。
(2)・国内権力の流通を妨げる過剰な人権概念の見直し。
(3)・民族及び国家形成の伝統を踏まえた国体の確認。
 (1)については米国の世界戦略に伴う露骨な支持がある。(2)については国民の義務的側面の強化が予想される。(3)については天皇の国家元首としての確認明記が中心になるだろう。この3点は権力意志の根底で繋がっているので一体として逆倒的に国民を強いてくる。  憲法は国家権力の暴走の監視、共同体の法的理想を提示し、運用法規次元の硬直性を是正するとともに、民主制の豊かな水準を保持するための法の法である。しかし、国家間抗争の複雑化や、国内の経済事情から受けている国民の刺激には予断を許さないものがある。敗戦を契機に、民主主義を国家の要諦と定めて以降約70年、我が国のナショナリズムと政治的幻想性の成長度が試される時期が迫っている。単なる賛成反対を超えた思想的対応として大衆的に錯誤の連鎖を転倒しうるかが問われることになる。その時、内外の権力性からの〈史観〉の民衆的奪還は(3)への対応からのみならず重要な意味を持つだろう。
 「天皇の役割というものを、和歌森さん(引用者註ー和歌森太郎『天皇制の歴史心理』)は、社会の派閥間の争いの調整機能と申しますか、社会矛盾の調整機能というようなところに、天皇存在というものの無用の用、つまり一番大事な役割をみているわけです。(中略)その点でも一つ和歌森さんは重大な誤解をしている。それは、社会矛盾の調整といっても歴史があるわけです。天皇制が成立して、すでに千三百年経過しているのですから、その間に、天皇や皇室が社会矛盾の調整に機能した実態を検討してみると、それはほとんど権力者内部の矛盾の調整であるわけです。つまり支配階級内部の矛盾の調整にすぎないのであって、人民とその支配者との間の基本矛盾というものに対する調整の役割などしておりません。それどころか天皇は、不死鳥のようにいつも支配者が変わるたびに新しい支配者の肩に次々と飛び移っていく。(中略)つまり支配者の存在を永続させ、あるいはそれを共倒れさせないという大きな役割を果たしてきた。ところが人民の側からいわせれば、支配者と支配者が派閥抗争をして、ヘトヘトになって、共倒れになってくれることが一番望ましいのですが、それを防いでしまうのが、いままでの天皇の役割であったわけです。」(色川大吉「日本縦断」)
 色川によれば、明治憲法の草案は民間の草案だけで三十数種類もあり、その中で条文が二〇〇条(現憲法は一〇三条)以上のものは二つ、その一つ土佐の植木枝盛ら立志社の草案は、今の日本憲法よりラジカルだという。
 「なにしろ憲法の中に、人民の抵抗権、革命権という規定があります。たとえば、内閣が人民にとって著しく不利益なことをした場合には、仮にそれが合法的な内閣であっても従わないでよい。抵抗できる。もしその人民の抵抗を政府が武力で弾圧した時には、人民は武装してこの政府を倒す権利がある、という規定が含まれているんですから、まあいまの憲法どころの騒ぎではないわけです。地方自治に対する権限も非常に大幅なものであって、財政的にも行政的にも大幅な権限が日本の各州政府に与えられている。そういう点では、明治の民間草案の方がいまの憲法より進んでいるといえます。」(同書)
 現行憲法の改悪を阻止する動きと同時に、より民主的で未来的な草案への備えは不可欠であり、権力側の法的言語を止揚しうる大胆で新鮮な民衆の言語が対置されねばならない。