『奇妙な夜の記憶』をたどって

 咋年夏、関係性への音信不通をわびる思いもあり「コントラ前衛的コミュニケーションの現在」「失策と訂正」と題した二つの文章を書いてみた。引用ばかりの雑文に対して複数の批評をうけとることができたのは感謝であった。だからいっそう自己の内側の曖昧模糊とした根底からやってくる告発の存在感も巨大である。
 いったん言葉にした以上「決定的に不十分」と言ってすまされない責任の所在がうかびあがる、と言うより、着地と飛翔の契機はどんなつたない表現にも内包されているのだから、自分のことばを試み、その試みをもたらす力や解体する力とより深くあいわたることが今後も問われよう。松下の残した成果に依拠することさえますます困難を深めていくけれども、“その困難さに拮抗する各々の「時(へ〜から)の楔」を創り出さねばならない”と、内なる声はまたささやくのである…。
 放置したままにしている自らの声の全てを聴きなおすことが迫られているとして、とりわけ、先述した「コントラ〜」から提起されているのは、自分にとって本質的に交差して来るようにみえた言葉が両義性に引き裂かれていると感ずる時、それがどのような構造に由来するものなのか明らかにして行かなければ、引き寄せようとした問題が着床しないまま閉塞してしまうということである。
 「失策〜」は、作業の時間性あるいは必要度を拡散させるように働く力が、外発的要因以上に生活様式の内側から侵して来るので、上滑りの自問という代償行為に逃げ続けているだけでは駄目だ、という内部告発を引き寄せている。
 既に半世紀以上の齢を重ねながら、あいもかわらず幻想と生活を昇降する言葉の回路が閉じている。見えていないのでも、心中の意味が空白なのでもない。いつの時点からか、いわばおのれの表現速度や内発力に安易な見切りをつけてしまっているのだ。
 だが、松下が提起したことのひとつは、表現ジャンルや個々の能力的格差の間題は部分性にすぎず、表現とは誰もが逃れることのできない全存在プロセスなのだ、ということであった。巨大な表現位相をかいまみることで、恐れつつ慰撫されてもいた自分の欠落が、彼の居ない世界で無残に剥ぎ出されていると感じることがある。

 壊滅的敗戦によって解体されるかに見えた国家は、国際的パワーバランスの要請に沿って決定的な解体には至らず、国内の旧権力構成がおおむね温存されるや、科学技術文明の超加速的進展を取り込み、財界再編の(大規模な労働者〜知的階層の弾圧を含む)推進的政策によって経済の自働展開を統御していった。その具体的現場を末端で担うさまざまな社会階層の幻想性に対して、旧権力復古の可能性を常にはらみ変形しながら、前面においては国民生活の繁栄ないし保護を中軸とする民主国家幻想として逆立的な法的言語によって君臨する。
 私が青春期にさしかかる頃には、家族の期待を背負った子弟が大学に多く入るようになる。それは一面では、敗戦後わずかな期間で大多数の民心を取り込み富の配分構造を調整しえた国家の〈勝利〉とも言えた。しかし、例えばいわゆる団塊の世代とは、新しい国家意志の先兵として産学戦線に〈徴集〉された者達の謂いでもあり、故に、国家の〈勝利〉の構造によって拡大する根源的矛盾の世界史性に向き合わねば済まない両義性を秘めていたのである。
 就職目的で商業高校に入った私は、数年前の死者を抱え込んだ大闘争の意味にも、世界で何が起きているかにも無関心で、唯一の自己確認のように竹刀ばかりふりまわしていた。
 ところで、今目の前に、ありえない夜の予兆のように浸透してくる文章がある。80年代も終わる頃、松下が表現集(続)に収録したことで初めて触れえた文章である。執筆は64年12月、発表は翌65年1月。
 その頃の私は就職も決まり安定的なサラリーマンの進路が定まっていたが、何故かしっくりこない気分にひたっていた。入社後数カ月は六甲の社員寮で研修期間を過ごしたので、松下と地域的に急接近していたこともあったのだ。私の会社生活は1年と持たず、間もなく大学進学という体のよい位相への逃亡を企てることになる。松下らが戦後の情況を一周して一瞬かすめた〈学校〉を想像だにできない位置で、制度的学校と己のモラトリアムを交差させようとしていた。

 高尾和宜氏の入魂の作業「松下昇クロニクル」をめくると、「61〜63の自立学校(吉本隆明、埴谷雄高、九州から谷川雁、美少年の平岡正明、黒田寛一がいて60年安保に結局は敗北したことを「壮大なゼロ」といい、新たな組織の必要を語っていた。)には数回でた。」とある。「開校後数カ月経って自分は神戸に移り(63年4月頃)、その後数カ月して閉校したらしい」という松下自身の記述から考えると、自立学校の存在期間はもっと短かったのかもしれない。いずれにしろ松下にとって内的転換の契機やその手ごたえを確認する貴重な機会であったにちがいない。闘争敗北後の暗い夜の連なりに光芒を放って跳梁した魂たちとの交流は、すぐには分かりがたい奇妙な夜の記憶としてきざまれ、その奇妙さは〈希望〉のような混沌をもたらしたのだと言えよう。ひそかに醸成されつつあった松下の〈野望〉が、全国的な大学闘争の広がりから収束過程、さらにその後を包囲して、自主講座運動〜として実践されはじめるのはこの文章の公開後数年を待たない。
 自立学校が制度とは直接交差しない位置で行われた奇妙な実験であったとすれば、自主講座は制度的な学校に内接して胎動している。制度内の講師や学生が試みの中心に存在することによって、その発端から、各人の恣意性の領域と存在基盤とは密接に関係付けられていた。権力を行使する側にとっても無視できない干渉すべき関係として現われ、ことにバリケード構築後は、闘争を収束して旧秩序に復帰したがる者たちのその立場自体が自主講座への一つの参加様式であり、不可解な恐怖と憎悪の対象となっていった。
 自主講座の原則的ヴィジョンを当時の発言から要約すると、
 1、バリケード空間の本質を一過性のものとしてとらえず、創造(想像)的に深化拡大する闘争の別表現として関わる。
 2、自分たちが創りだしうる最も深い情況に自分たち自身が存在し、そのことによって引き寄せられてくる一切のテーマが必然的な課題である。
 3、間題意識そのものが講師であり、共闘的であるか敵対的であるかにかかわらず、その時やってくる全ての人間が参加者。
 4、その空間の直接的構成員だけでなく、周辺の労働者、市民、家族を包括しつつ旧秩序に復帰しない方向性を追及する。
 5、可視的なバリケードは、我々のおかれている本質的な断絶の一つの断面であり、(階級性の影)にすぎない。〈大学〉闘争における表現の階級性紛砕〜変革すべき対象と我々自身の表現根拠の同時変革。
 6、日付の闘争は終わった。24時間をおおっていく不確定な連続闘争に対しての真の意味での武装。
 〜ということになるだろう。
 このラジカルな問題意識は、物理的バリケードや「政治と文学」〜といった既存の知的バリケードをも超えつつ、新たな相貌でそれぞれの基底に突き返されてくる。これに向きあう者の多くは、「非現実的」あるいは「誇大妄想的」であると無視するか、「御意見はごもっとも、しかし、あなたと同レベルでの対応は不可能」と身をかわすしかない。接近した者たちが、「頭を切りかえ」次々と生息しやすい器に帰って行く中、彼は、言葉が現実と対等の重さをもって屹立する地点(幻想のバリケード)を追求し、その中心で運動し続けた。それはまた同時に、「正しいと思うことを主張するのはいい。だが、それならば君はどう生活するのか?」という秩序の側からの声に〈家族〉らとともに応えていく過程でもあった。
 決して解散しえない〈全共闘〉性を生きている者の一人(金本浩一氏)は、今年5月6日、松下パンフ移動〜の件で会合を持った岡山駅近くの酒場で、「全共闘運動の生命線で本当に闘ったのはごく少数の教師達であった。自分達学生はほとんど何もなしえなかったのだ」と突然逆説的に口走った。後にその発言の記憶は無いようだし別の思いも語っているが、それぞれが潜った闘争時空の過酷さが交換不可能な唯一無二の体験であったとしても、己自身の無意識に交差する言い表しがたい〈視線〉の所在を当時学生の側にあった私たちは肝に命じておくべきだろう。

 松下の〈野望〉の実践からクライマックスに至る期間、私は全く〈無縁〉な位相で一人もがいていた。66年4月、都内の私立D大中国文学科に入る。会社を辞めた時点では、地元九州の公立大学をめざして何年か浪人するつもりだったが、厳しい経済事情や願望を知った高校時代の国語教師が自分の母校に推薦の労をとる旨申し出てくれたことに飛びついたというのが本当のところである。クラス担任は、遠方でも良いと知っていれば自分の母校に推薦したのに、と惜しんでくれた。(できの悪い生徒を気遣ってくれた二人の教師は現在の私よりはるかに若くして逝ってしまった。)
 上京するに際して、いつかこの高校にもどって下の世代と言葉や竹刀を交えようとばくぜんと考えていたのだったか。遠方に出るには衣はともかく食住の手段確保が先決だったから、最初の落着き先は新聞販売店一畳のスペースであった。入学すると直ちに部活からの呼び出しがあり、あえて固辞するつもりもなかったのだが、たくさんの部員の前での恫喝まがいの入部強要に反発を覚えたことも作用したのか、大学では運動部に入る生活的ゆとりがないと断わり続けた。故郷で顔見知りの中心部員がいたこともあって最後には主将以下アルバイトに協力すると言ってくれた。あの時ふと芽生えた甘い期待に賭けたとしたら上京時のばくぜんとした希望に少しは近づくことができたであろうか?後悔からこう記すのではなく、一瞬一瞬の岐路における出会いやあいまいな時間のねじれが、〈私〉という仮装性に転換していく不思議をいつも思うからである。数年後、教育実習には行けなくなった旨を獄中から母校に書き送ることになったが、その後も校長以下私への対応は変わることがなかった。
 なんとか4年生になった1969年4月28日沖縄デー前夜、全てのことが、混乱する夢のように自分に殺到してくる感覚をもてあましながら夜明けを待った。学内で独自に発言したり、激しい街頭デモに参加したり、東大安田講堂に泊まり込んだりするようになっていたが、すんでのところで権力の手をすり抜けていた。今ここで自分の有り様に決着を付けなければ先には進めないという思いにかられていた。肉身や、共生を願う新しい関係者の苦悩する先行きがその思いに交錯した。
 苦悶の中で自身の言葉を見いだせない私は、「あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ」と始まる吉本隆明の「ちいさな群への挨拶」を模造紙に大書してアパートの壁に貼りつけた。「〜ぼくはでてゆく 冬の圧力の真むこうへ ひとりっきりで耐えられないから たくさんの人と手をつなぐというのは嘘だから〜」と。
 逮捕後の家宅捜索でこの模造紙は押収されていない。権力は私の〈犯意〉の最大の証拠品を見落としたのであった。冷静な視点からは、未熟な心情を愚劣な仕種にゆだねただけに見えるかもしれない。しかし、かかげられている政治スローガンだけでこれからの行動を支えきれない時、その行動のむこうにある何かを予感しながらそれに対応する言葉を見いだせない時、類することは誰にもありうるだろう。
 これは『奇妙な夜』というより、極私的夜の一断面にすぎない。その「すぎない夜」が今も私をとらえているという一点において〈奇妙〉というよりほかない。その年の2月、神戸大学では松下によって〈情況への発言〉がはり出されていた。深化拡大していく自主講座運動の存在をかなり後まで知ることはなかったけれども、その夜のどうにも言葉にし難かった情念の迫真性を私が忘れ去ったとすれば、どのような時間的かつ距離的接近があったとしても、松下に出会うことは決してなかったであろう。

 そんな夜から30年近くも経ったある日、吉本隆明が次のように発言しているのを読んだ。
 「欲望が多様で、実現しやすいことが、都市の根拠なんです。だからエコロジカルな主張は、一種の別荘感覚から発しています。便利な都市生活にぬくぬく浸かり、都市の与えるアメニティーをたっぷり享受しておきながら、まあ一年のうち二十日間か1ヵ月ぐらいは、別荘へ行って、緑の中で日光浴したり、魚釣ったりするのは確かにいいことだ、という感覚じゃないですか。それなら、それで一向にかまわない。けれども都市にべったり寄生しておきながら、別荘での生活こそが本当の生活だ、真実の生活だという社会的主張など、決してやってもらいたくないものです。」(94.4 都市から文明の未来をさぐる)
 吉本の論敵が間違っているにせよ、この言い方でいいのか?「自立の思想的拠点」の中で同じような論じ方を読んだような気がしてめくって見ると次のようにある。
 「現在の制度から自分にはどんな機会も提供されていないとこぼすものは、まさにその愚痴によって、自らの想像力のおそるべき貧困を告白しているにひとしい。いわんや、現実の生活では現在の組織や制度が与える機会を結構享受していながら、自らはそれを意識せず、『外』にいるつもりで『疎外』のマゾヒズムをふりまわす人々を見ると、どうしても電車のなかで大の字になって泣きわめいて親を困らせている子供を連想したくなる。どちらにも『反抗』の根底に『甘え』がひそんでいるからである。」(66.3 「 情況とはなにか」における引用部分)
 もちろん、この個所は丸山真男の「現在政治の思想と行動」から吉本が批判的に引用した部分の、そのまた部分である。
 先に上げた吉本の発言は、内容はともかく、口調がこの丸山的な響きを感じさせる。左右にかぎらず、松下らの表現過程を「生活感がない」「幻想領域の区分があいまい」といった吉本まがいの批判ですり抜け、後足で砂をかけた者たちの口調にも似ているという思いがよぎる。
 「人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信ずることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は撰択するからだ。しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。」と、かって「マチウ書試論」に書き付けた時、その後も展開される幻想と現実の逆転する矛盾域の深さに突き入りながら、吉本の〈宗教〉批判は眼前の対象を深く貫いて実存の岩盤に達していた。その〈暗い〉洞察と転倒の響きがもう聞こえない。
 ここで言われている内容は、「大衆をぜったい敵にしない思想をあみだす」という吉本の下降的な営為からすれば、〈物質と欲望が直接かかわる文明領域は、あめだまのように甘かったりゲンコツのように痛かったり快不快が具体的である欲望の運動領域であり、各人の抜き差しならぬ欲望の通りが良いようなものとして発達する。これを抑圧するような幻想性を文明領域に対置するのはエコロジスト〜たちの思想的錯誤である〉ということであろう。
 丸山への批判は、〈政治領域を幻想的プロセスという視点からとらえられない政治理論上の錯誤〉という点であり、「大衆の原像」を繰り込む思想的課題から疎遠なところで発想している知識人たちへの批判において、かっても今も一貫しているということになるのであろう。彼の生涯の守備範囲において。
 しかし、「欲望」といい「文明」といい一筋縄ではいかない言葉だ。吉本はここでは無造作につなげ過ぎている。一定の文明段階における大衆の具体的必要物とまだ具体的な対象〈物〉を確定できない欲望に挟まれているのが文明の現在である。「ただの何でもない大衆」は自らの欲望に対応する文明の決定権を持たないし、知性や富を占有しうる個人や組織やそれを支えるシステムによって既成事実化されていくものを一方的に受け取ることしか許されていない。大衆の消費行動はそれ自体として、欲望の、ひいてはその逆立した文明性の転倒や自主管理には結びつかない。なぜなら個々の欲望の個別性さえ奪う〈幻想性としての文明〉からの圧倒的攻撃にさらされているからだ。表現論の違いを展開する以前に、このように言わざるをえないひとつの理由は、〈1969年〉以降、個々の欲望の即物性に孕まれた矛盾が限界点を超え、幻想過程が現実過程を追い越し飲み込んでしまった世界に生きている、と私(たち)が強く感じているからでもある。
 物質文明を自然過程と捉え幻想領域との位相差を明確にすることと、その延長上に得られた真理性の認識を現実過程の様々な条件を無視しうる位置(大家〜スペシャリスト〜等)で強調することとは別のことだ。表現〈過程〉を見誤ると、いかなる緻密な思想体系も権力的に現象することになる。社会現象として今後も階層化は続くだろうが、〈大衆〉と〈権力〉双方からの自立的な社会階層として幻想領域にとって本質的でありえた〈69年以前〉の知識人論で潜れる情況はもう何処にもない。望まずとも、関係として知的特権性を前提とする立場や守備範囲から流れ下る知識によって救われるのは「ただの何でもない大衆」ではなく、既存のシステムに居直る強権的な〈欲望〉たちの関係性にほかならない。

 お調子者の頭の中だけで形成される社会的主張や政治的要請など本当はないのではないか、どんな荒唐無稽な言説の根底にも人類の多様な欲望の形が必ず抱え込まれているはずだと一旦は考えてみるべきである。問題は、欲望(〜飢餓)の根拠に向かって主張や要請を逆組織しえないことにある。つまり、知性は未だ言葉の乏しい多数者を想定して、代弁〜啓蒙〜代弁〜啓蒙と循環するねじれに閉じ込められている。この世界の成りゆきからやってくる各々の接点をまず一人でも占拠し、関わってくる全当事者(人に限らない)が〈自立〉的に表現しうる条件をつくりだすこと、個々人が無意識に立脚している権力的磁場を相互に変換しながら表現根拠に運動性を繰り込んで行くことが〈不〉可能だからである。この〈不〉への射程が自主講座運動〜の出現に象徴される未来性である。
 いまや日本代表たる思想家について全体系への切り込み条件なしで寸評するなどおこがましいのは分かっている。しかし、丸山批判に先立つ個所で、「これまた恐ろしいことに、「幻想」は、どんな世界情況のなかでも、「頭を切りかえ」ることによって通ることができるということである。そして、「頭を切りかえ」ることによっては、どのような情況も通ることができないような「幻想」をつくりあげること、「幻想」とは本来そういう怖ろしい根の生えた世界だといった世界をつくりださねばならないという課題を負っている。」と吉本は述べていた。一人ぼっちの〈奇妙な夜〉、卑小な形とはいえ彼の詩の言葉に未生の言葉を幻視しながら出ていった私は、その後の固有な過程が〈詩〉に拮抗する現実でありえたかと自らに問うようにも、〈詩〉自体の来歴と根拠を表現過程として問い続けねばならない。それはあらためてここに記しておきたいことのひとつである。

 (昨夜から今日にかけて、ニューヨーク世界貿易センタービルをふくむ米国〜中枢建造物が倒壊した。複数のハイジャック機を操縦して乗客ごと突入する衝撃的なゲリラ行動と言われる事件結果とその波及にマスコミは浮き足立っている。米首脳はすかさず報復を宣言し、怒りにかられた大多数の民衆がそれを煽る。世界はあいも変わらず殺りくと報復の連鎖に拘束されたまま新世紀を転がり落ちて行くのか?)

…〈報復と一行の詩〉…
〜2001年9月〜(新たな嬰児に見つめられつつ)永里繁行  (掲載段階で再構成)