註・この表現は「神戸大学応援団機関誌BRICKNo.12(1973年4月発行)に掲載された。原文は縦書き、なお、表現集への収録段階で記入されている訂正等は本文に包括して書写している。
◉もう一つのBRICK=レンガの中での話
松 下 昇
❋一九七一年十二月十五日、赤レンガの神戸地裁第28号法廷における湯浅光朝証言の要旨。( )内の記述は全て筆者
㋴登場。宣誓する間、法廷内から失笑がわく。
{裁判官の問に対して}
「職歴は、昭和二十九年、神戸大学理学部教授。昭和四十四年九月一日から教養部長事務取扱。昭和四十六年四月一日から教養部長。年齢は……六十一才です。」
{債権者(国)側の代理人、上野検事の問に対して}
⚪︎神戸大学教養部の管理者はだれですか。
「学長から委任された私です。」
(ナンセンスの声)
⚪︎債務者(松下昇)が神戸大学教養部に勤務したのは、いつからいつまでですか。
「昭和三十八年五月一日から、昭和四十五年十月十六日の免職までです。」
⚪︎免職の理由は何ですか。
「国家公務員法第八十二条第一、二、三号です。」
⚪︎処分の方法はどのようなものですか。
「慣例として、教授会規程、評議会規程で行なうことになっています。」
⚪︎教授会規程は法令上要求されないものですね。
「はい、そうです。」
(教授会で正式?決定していない弱点からあらかじめ逃げるための八百長問答)
⚪︎松下問題は、いつ生じたのですか。
「昭和四十四年九月一日に封鎖解除後の授業再開がありましたが、そのときからです。いや、処分理由には、昭和四十三年度後期の成績表提出拒否もあるから、もっと前かな。いや、それとも……。」
(この時間性把握のおソマツさ!)
⚪︎教授会の議題になったのは、いつからですか。
「昭和四十四年十月に、授業拒否教官の処置について一般的に論議したことがあります。」
(この頃は、松下の他に助手の何名かも授業拒否をしていたので、いきなり処分をすることができず、松下に対する賃金カットや留学のすすめなど、アメとムチの方法がとられた。)
⚪︎具体的に名前を出して処分を検討しはじめたのは、いつからですか。
「昭和四十五年三月に、調査委員会が結成されてからです。」
(結成に際して、調査委員会は、〝時間割に関する〟ものであって〝処分のため〟のものでないことが執行部によって強調された。にもかかわらず、〝人命にかかわる〟という口実で、調査委員の数、氏名などは現在まで明らかにされていない。)
⚪︎その後の経過は、どのようなものですか。」
「昭和四十五年四月に、調査委員会の報告が、教授会メンバー過半数以上の出席者のうち三分の二以上の賛成によって承認され、懲戒処分にすることが議決されました。」
(前項の註のように、報告→処分はギマンである。また、処分するかどうかについての投票はおこなわれていない。執行部は処分の程度についての意見分布をとったと称しているが、意見分布は投票のような効果はないのだという説得的ドウカツによって、はじめて実施されている。さらに、この意見分布では、免職だけだと三分の二を越えないため、免職と停職の双方を合計して、やっと三分の二になるので、評議会へは、三分の二以上が重い処分に賛成と報告している。なお、昭和四十四年以来、教授会には必ず機動隊が警備しており、昭和四十五年四月八日には、処分粉砕、教授会公開などを要求した処分対象者である松下および学生四十名を建造物侵入、威力業務妨害の容疑で現行犯逮捕している。)
⚪︎教授会の決定を評議会へ上申し、評議会はそれにもとづいて審議を開始したのですね。
「そうです。教員公務員特例法に従ってやりました。」
(教授会が処分の意向をもっているから評議会はそれを追認するだけでよいという。処分責任の比重を転嫁する見解が事情を十分に知らない各学部の評議員へ流布された。また五月はじめ、評議会の議題になったのと同時に松下に対して、闘争期間中のいくつかの行為に関する逮捕令状が出されたのは、奇妙な一致である。五月十八日、教養部の〈 〉広場で逮捕された松下は、五月二十三日、学生四名とともに起訴され、現在研究室裁判=民事裁判と平行して、というよりは統一的に、刑事裁判がおこなわれている。)
⚪︎評議会は債務者(松下)に処分についての陳述の機会を与えましたか。
「はい、四回与えました。一回は拒否したので三回かな……。」
(〝与える〟という支配者的発想をみよ。松下は一回でうち切りたい評議会で二回陳述し、事実性論によって格闘し、大学側を窮地においこんだ。なお、松下は陳述を拒否したことはなく、評議会公開などの要求をする松下の正当な行為を、評議会が陳述を拒否しているとみなしたにすぎない。)
⚪︎参考人の意見も聞きましたか。
「ハイ、八人から意見を聴取しました。」
(松下が要求した最低限の参考人十六名のうち四名と、処分者側がえらんだ四名から、陳述終了後の九月一日に文書による意見をうけとってアリバイを作ったにすぎない。)
⚪︎懲戒処分の書類を交付した状況は、どのようなものですか。
「十月十六日の朝、自宅へもっていきました。かれは寝ていたらしく〝正午に研究室で会う〟というメモを娘のまやさんを通じて渡してきたので、メモをかける位なら寝ていないと判断し、重ねて面会を要求しました。階段を下りてきたかれに書類を手渡そうとしましたが、受けとるのを拒否したので、玄関において帰りました。」
(教職員数名と共に早朝現われ、二人の幼児や待機中の共闘者をドウカツして何度も呼び出しをかけ、書類のうけとりを拒否されると形式をととのえるためか大声で文面を朗読し、玄関の外に書類を放置して逃げ去った。松下の共闘者は、その書類を評議会あて返送し、その後、行方不明である。)
⚪︎処分発令後も債務者は研究室を使用しましたか。
「明渡し要求の内容証明郵便を五回出し、職員を自宅までカギをとりに行かせたのですが、全て拒否して研究室を使用し続けました。」
⚪︎それによって、どのような支障が生じていますか。
「何回か旧松下研究室へ不法侵入し、意味不明のラクガキをかいています。またベランダをへだてて反対側にある倉沢研究室の共同使用要求がなされ、図書などが盗まれています。」
(昭和四十六年四月九日、大学側が仮処分決定書の到着以前におこなった松下研究室の逆封鎖こそ、不法侵入、強盗ではないか。)
⚪︎いままで質問してきた問題は、証拠資料として提出した教養部広報にのっていますね。広報委員会はどのような構成ですか。
「広報委員二名が教授会で選出され、執行部と共に作成・配布の責任を負います。とくに、松下問題について詳細な報告をしています。」
(ばく大な費用を使って作成・配布されている教養部広報のうち、とくに22号、25号、30号は、悲惨かつコッケイな記念碑的文書である。なお、内容があまりにもズサンなので、昭和四十六年七月に松下処分をめぐる人事院審理がおこなわれた際、大学側は、被処分者側の広報を逆用した攻撃にたまりかねて、〝広報は処分の根拠としての法的な価値はない〟と発言している。)
後註。この証言の怖しいまでの愚劣さは、たんに湯浅個人の責任というよりは、現在の〈神戸大学〉の全ての〈教官〉の責任であることは、いうまでもありません。
湯浅証言に対する反対尋問が、これ以降、数回の公判でおこなわれます。この事件をふくむ、あらゆる問題について関心のある人は、〈 〉焼売場へ連絡して下さい。
(以下は)批評集α篇への補充としてよんで下さい。(刊行委)
前略
貴殿は、昭和四十七年一月十日より土曜日、日曜日、祝日を除いて教養部構内に立ち入り連日午後一時前後から午後三時前後までB一〇六号教室西出入口附近で、無断で同教室のガスストーブ等を使用し、〈 〉焼きと称し、食品を販売しているが、かゝる行為は、大学の国有財産管理権を侵害し、公秩序を乱す著しい違法行為といわざるを得ない。かゝる行為を速やかに中止されるよう要求する。
以上
昭和四十七年一月十九日
神戸市灘区鶴甲一丁目二番一号
神戸大学教養部長 湯 浅 光 朝
神戸市灘区高羽字楠ヶ丘十番地
松 下 昇 殿
この郵便物は昭和47年1月19日第186号
書留内容証明郵便物として差し出したことを証明します
灘 郵便局長 (日付および局の印)
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