宙吊り情況への斷章1975年11月20日 松 下 昇 氏私は、ある契機と必然性において、一九七三年度および一九七四年度のEVEに参加し、それぞれの機会に、持続の根拠を提起してきたので、その意味からも、少くとも一九七五年度のEVEでも、何かをしなければならないと考えている。 特定のテーマは設定しないでおく。というのも、私にとって、EVEは、拡大自主ゼミの場の一つであり、参加者のー人一人は、仮装した実行委員会なのだから、私たちが、出会うときの関係性をこそ開示していくことから出発したいのである。 むしろ、参加者から、私にむかって、テーマを提起してほしい。たとえば{ }という〈表現〉が、いま、ここに存在するとして、それは、どこからきて、どこへいくのか、という風に……。 本日は、私たち、少くとも私にとってテーマそのものを確定し得ない情況にあり、その不確定性自体を対象化していく段階に来ているのではないか、そういった気持ちから、あえてテーマを設定しないで、やってきています。もちろん、こういう形でEVEにかかわるのは三年目なので、私なりの連続性はあるわけですが、同時に、EVEという場で語るのも、おそらく、今年が最後だろうという感じでここへ来ているわけです。テーマそのものの不確定性といいましたが、別のいい方をすれば、具体的な固有のテーマを設定しないで、任意のテーマを素材にして、語り出したとしても、何ごとかを盛り得るというふうにもいいかえられると思います。しかし、その度合いだけ、決して言葉では、それ以上追求し得ない領域に出会うだろうという予感もあります。 さて、私が、パンフレットにあるように、宙吊り情況と、いつてみたことの意味を、語ってみたいと思います。すでに、知っている人もあるかもしれませんが、一九六九年二月二日という日付は、私にとっては、意味のある日で、その日に〈情況への発言〉を大学の掲示板にはり出したのですけれども、それを提起したことの意味が、その後六年を経て、いまも持続していると考えています。その六十九年の情況が、七十年代以降、いわば宙吊りの形にさらされている。それは、個人的な水準でだけ、そうだというのではなくて、私たちが、この数年間、さまざまの形で試みてきた過程の総体が宙吊り情況にさしかかっているのではないかということです。そのことが、任意のテ―マから出発し得るけれども、ある段階以上は闇の領域に入ってしまうという現時点の特徴を形づくっているように思います。 先ほどのべた〈情況への発言〉の段階は、たとえばバリケードというものが、実際に目で見たり、自分の手でつくったりできるものとして、感覚的にとらえ得る存在としてあり、同時に、いつかは解除されるかもしれないけれども、永続的な意味を込めて構築しようと思うことのできた、ある意味では幸運な段階でもあったと思います。それが七十年代のこの過渡的な段階においては、私たちの試みのすベてがほぼ、その最終的な形を予則し得るほどに追いつめられてもいるし、どの試みも、どこかで屈折したという前例を持っている。そういう、困難な、情況に差しかかっていると思います。その場合、自分がこだわり続けている根拠を、もう一度とらえ返して、自分の屈折の度合、あるいは困難さの領域というものを再確認し、それを可能な限り、共有の場で提起していく。そういう必要性もあると思うので、とりあえず私にとって、六十九年から七十年代にかけてのテーマが、どのように提起されたかを簡単に再確認しますと、〈情況への発言〉の翌年、つまり七十年の一月八日に、〈なにものかへのあいさつ〉というビラを配布したことがあります。その中で私(たち)の共有の課題として、三つのテーマをα、β、γというふうないい方で提起しています。αとして〈不可能性表現論〉、βとして〈情熱空間論〉、γとして〈仮装組織論〉という風に。 七十年の冒頭の段階で、これらは、とっさにかき記したような感じがするのですがその後、時を経るにつれて、少なくとも私にとっての持続的なテーマになってきているし、今後も、おそらく自分の生命のリズムとほぼ同じぐらいの期間、格闘する対象であろうと思っています。 七十年代に入ったときの宙吊りの感覚を、私は大江健三郎の小説「洪水はわが魂に及び」の最後の部分にくりかえされることばである「~であろう。しかしその~も宙吊りのままで、そして無だ」という切迫した認識の中にもかいまみていますけれども、その位相を私に引き寄せて、とらえ直せば、どうなるか。私の場合は、宙吊りという感覚はずっとありますが、「そして無だ」というようには連続しなかったし、現在もしていません。そして価値判断ということではなくて、どういう構造の違いがあるのかを考えてみました。私の場合は宙吊りの感覚は、もちろんあるのだけれども、むしろ宙吊り情況をつくり出していく、あるいは、意図的に不確定な状態を逆用していくことを数年間試みてきた、また試みざるを得なかったということがあるように思います。 宙吊りというイメージを、うんと広げて考えた場合、非存在というふうなイメージとどこかで交差しているでしょう。たとえば法廷から召喚された場合にも出頭しないという状態が何度か持続すれば、勾引されたり勾留されたりという結果がありえますし、また、裁判でなくても、持続的にある人に出会わない、出会えないという状態が持続すれば、やはり、それも非存在というテーマに交差してくると思います。それから、未開封というテーマにも何度か出会っています。普通は、手紙がくるとそれをすぐ開封して読むというのが多いわけですけども、意図的に開封しないで未開封状態にしておく、あるいは、どこかへ運動させるということも可能なわけです。どこかになくしてしまった、ないし押収された表現群の構造も、やはり宙吊りというテーマと、どこかでかかわっています。そのほか、私が表現してきた〈六甲〉とか〈包囲〉についていえば、ことばだけの位相での完成はあり得ないわけで、つまり未完成の過程を対象化する作業が私(たち)にとっての表現の根拠になっているわけですから、いわば宙吊り情況への表現であるともいえます。 六十年代からし七十代へかけての、このような表現の一つの比喩として、たとえばバリケードもあっただろうし、現在も持続している裁判闘争とか自主ゼミとか、さまざまの試みもあるでしょう。しかし、だからといって、私という人間についていまのべたようなことをしている人間という風な規定の仕方からは、何も見えないだろうと思っています。むしろ、そういった闘争とか、裁判過程とか、自主ゼミとかいうものは、それぞれが何かの影であり、比喩であり、それらを比喩たらしめている構造それ自体がおそらく私たちにとって切迫しており、そのテーマにとりくむ努カを放棄すれば、今までの試みが無に帰するという段階にあるのです。 このEVEにおいても、昨年、あるいは一昨年提起したテーマはあくまでも私自身のテーマの最も語りやすい、あるいは活字にしやすい領域であって、そこからはみ出す、問題は深い闇の中にまだ沈んで、そこで激しく葛藤し続けているという方が正確だろうと思います。そういうことを踏まえて、昨年、一昨年のテーマそのものを、ふり返ってみますと、たとえば一昨年のEVEでは、仮装の問題というのを取り上げました。その契機として裁判所に召喚されている被告ないし証人に仮装して、出頭したり、証言したりすることは可能かといういい方をしましたけれども、その後二年間たって、その試みはこのEVEを媒介として出会った人たちの共斗によって展開されつつあります。 仮装のテーマというのは、本来存在の根拠を交換することは可能かという問いでもあり、単に裁判所や闘争の問題に限らず、ある人間ないし関係性と他の人間ないし関係性の存在の根拠を交換することが、どこまで可能かという問いをはらんでいます。そのテーマが出てきたこと自体も、七十年代の困難な拡散した情況に規定されているわけで、六十年代から七十年代にかけて、一見、きわめて熱烈に追求された闘争なりテーマが、わずか数年間で解体している姿が至る所に現出しています。それを止揚していく試みでもあるのです。 また昨年のEVEで提起したものに自主ゼミというのがあり、これも、いくつものとらえ方があるわけです。たとえば、制度の中の時間割りを一つだけ、こちら側で自由にテーマを追求する場として設定するといういい方もでき、それで間違いではないのですけれども、やはり、全体の構造のごく一部、しかも伝えやすいところを伝えたにすぎないのです。本質的なことは、大学闘争の世界(史)性を現実の制約の中でもう一度とらえ返すとどうなるかということだと思います。いまは予感的にしかいえませんが、大学闘争といういい方は、今後全く異なった表現方法で把握されない限り、その意味が見失なわれるでしょう。いいかえると、六十年代から七十年代にかけての大学闘争なるものは、決して大学という空間の中で起こった闘争でもなければ、大学という機構に対する異議申し立てだけでもない。単に大学の空間、ないし、その機構をめぐる闘争であるというふうに考えてしまうと、そういう空間なり、機構なりは、この社会全体の中の小さい部分的な埸にすぎないから無視できると考えたり、あるいはそれ以後のテーマの設定を、より広い領域に拡大すれば済むというような平面化した横すべりが起きます。 ここで、現実過程のとらえ方について提起しますが、AならAという事件があったという場合、Aというものは、確実に必ず現実にあったものだという先入観でとらえられるでしょう。そして、Aなる事件をめぐってその評価がなされます。さらに、Aというのは、もう決定的な事実であり、評価の仕方、Aなるものが正しかったり、正しくなかったりするだけであるという先入観もあると思うのです。しかし、ある事件とされるものの現実過程と、それに交差する幻想過程の比重が、ほぼ拮抗し、あるいは後者が前者をのみこみつつある世界(史)的な段階、それがいわば大学闘争なるものをうみだした情況の本質ではないか。そういうふうにとらえない限り、バリケード空間以後の問題のうち、たとえば{ }公判の開示する深さは、本当にはとらえられ得ないはずです。 これと関連しますが、表現の問題について、ジャンルの解体といういい方を転倒して使えば、大学闘争以後の情況というのは、ある固有のジャンルによっては、決してとらえ得ないように存在しているはずです。たとえばあるどんなささやかな大学闘争についても、それを小説に書くとか映画に撮るとかドラマにすることは不可能であり、それは直感的に納得されていると思いますが、問題なのは、それ自体の不可能性というより大学闘争をさせている世界(史)的な構造をとらえようとする方法それぞれの解体が進行していることです。このとらえ方から、私たちの直面している七十年代の本質にかなり照明を浴びせうるような気がします。 そういう視点から自主ゼミというようなものを考えてみた場合、本来、何かの実現としてあるというより、その実現不可能性、制約の対象の過程をどのように具体化していくかという問題設定としてもあるわけです。つまり、大学斗争過程の自分にとっては、圧倒されるようなテーマ群を、一つには世代的な条件の違いによって、自分の感覚としては交差しえないことをしいられている人たちと共有する媒介をどこで設定するかという試みとして現在は位置しています。自主ゼミないし自主講座といわれている運動にもおよそ二つの段階があると思います。一つは六十九年にバリケード空間の内部で開始された自主講座なり自主ゼミ、これは、ある意味では幸連な出発をしているわけで、持続している限りそれがどのような弾圧をうけようとも、それを逆用してさらに展開することも不可能ではない。現に、私自身もバリケード空間でやっていた自主講座のために処分され、起訴され、そして現在も、法廷を一つの自主講座の場として展開しているということはあるわけですけども、一方、それから数年経て、いわばゼロと化した、あるいはマイナスに落ち込んだ情況から出発する自主講座なり自主ゼミが対極にあります。手がかりになるものは、凄惨な廃跡ともいうべき大学の機構にからめとられ、宙吊りのテーマ群をみないことをしいられている人たち、しかないし、ここから出発する他ありません。それ以外の場に出かけていくことは、必然が命じるときは別として、そこしかないという風に断定することは先にのべた大学闘争の把握の仕方を媒介しない限り、無効です。 昨年のEVEでのべた自主ゼミの原則の一つである公開はある意味では非常に怖ろしいことであって、だれでも来ていいということだけでなしに、だれでも平等の発言権なり、あるいは決定権なりを持ってしまう。バリケードを内在的に解除した原因の一つの単位制度を例にすると外部からの参加者は、あらかじめ単位は取れないが、そういった構造をどのようにとらえるのかということが問われる。その場合、去年もいいましたように、お金の問題を媒介にして、単位と同等のテーマの創出が必要になります。 一方、いまやっている自主ゼミは、決して全ての参加者がまとまった方針を追求しているのではなく、参加者はだれでも、自主ゼミの実行委員会という主体を仮装することができます。つまり、参加者は、だれでも自分がその自主ゼミの代表者として、何かの提起を、内部や外部を問わずできる。その結果、逆にそういう試みの反応が戻ってきた場合、それを共有の課題としてひきうけ、さらに討論を続ける。そういう試みをもう二年近くなりますが、やっているということです。ですから、きょう、はじめに、どのようなテーマから出発しても構わないし、特定のテーマから出発することが不可能であるといった意味は、このことにも具体化されており、現在の宙吊り状況の本質にたどりつくためには、自分の置かれた最も困難な道こそが、最短距離であり、そこを媒介しない限り、決して共有の場をつくり出すこともできないということと対応していると思います。 もちろん、ここでのべた自主ゼミのことは、展開していることの、ごく断片でありまた、その総体でさえもいわば最も語りやすい領域なのだということをのべておきたいと思います。本当に語りたいこと、語るべきことは、いま生まれつつある存在が、α、β、γ……を包括して、そのうち必ず開示してくれるでしょう。 〈まつした・のぼる・表現者〉 |