註・初出は昭和41(1966)年3月31日発行の神戸大学教養部人文学会・論集2。その後、あんかるわ別号〈深夜版〉2・松下昇表現集(1971年1月)に転載。松下はこの版の全体を〈 〉化しつつ、表現集・1として刊行した。(原文は縦書き)。

   

●ハイネの序文に関する序論


 いままで親近した詩人が自分の当面する問題から離れつつあるのを予感するとき、私たちは、はじめてその詩人を総体的に理解し得る最初の契機を手にしているのかもしれない。私が、私たちの意識や戦後史の歪みを描こうとしている過程では、ハイネのことは遠い夢のようにしか思いださないのであるが、私が行き詰っていると、うつろな休息の上に、〈ハイネの作品には、なぜ序文が多いのであろうか〉という疑問が影を落すのである。ハイネが多くの序文を書かざるを得なかった必然性をさぐることによってハイネの表現の本質へ迫りうる一つの道が開けるのではないか。この疑問の双生児として別の疑問がわいてくる。序文という、いわば作品に外接する文学空間から表現の本質に迫りうるのであろうか。もし作品の表現過程が完結性を帯びているのであれば、序文から作品の内容を裁断するのは邪道ではないか。この二種類の疑問をひきずりながら私はいま次のような計画を立てている。ハイネの自己作品に対する批評を系列的に確認すること。また、ハイネという動揺にみちた詩人の表現を序文という、作品外へゆらめき出つつある空間の系列でとらえ、いわば相乗作用によってハイネの特質を見出していくこと。私がハイネの序文群に固執する要因をもう一つかいておけば、さまざまのハイネ論において、序文の引用される度合が極めて多いにもかかわらず、それらのハイネ論が序文そのものの構造の分析にまで突き進んでいないという不満である。それゆえ私は、作品Aの序文→作品A、作品Bの序文→作品B、作品Cの序文→作品C ……という方向とは直角に交差するような、作品Aの序文→作品Bの序文→作品Cの序文……という方向をとってみたい。
 序文群の年代別の表は左記のようになるが、死後発見された原稿で年代不明のものがあるので、他の資料によって補足する必要がある。後記、結語、追記も、表現次元の上で序文と共通性をもつので表に加えた。
   作品        年代        序文
「旅の絵」第一巻    一八二六
「旅の絵」第二巻    一八二七
「歌の本」       一八二八
「旅の絵」第三巻    一八二九
「旅の絵」第四巻    一八三〇  「旅の絵」第一巻第二版への序文
                  「旅の絵」第四巻への追記
                  「旅の絵」全巻への結語
            一八三一  「旅の絵」第二巻第二版への序文
「フランスの状態」   一八三二  同上への序文、および序文への序文
「ロマン派」      一八三三  同上第一部への序文
                  同第二部への序文
「サロン」             同上第一巻への序文
                  「旅の絵」第四巻・第二版への序文(草稿)
「ドイツ宗教哲学史」  一八三四  同上への序文
                  「旅の絵」フランス語版への序文
            一八三五  「ロマン派」フランス語版への序文
            一八三七  「歌の本」第二版への序文
            一八三九  「歌の本」第三版への序文
                  「告発者について」「サロン」第三巻への序文
「新詩集」       一八四四  同上への序詩
「ドイツ・冬物語」         同上への序文
「アッタ・トロル」   一八四六  同上への序文
「ロマンツェーロー」  一八五一  同上への後記
            一八五二  「ドイツ宗教哲学史」第二版への序文
            一八五五  「ロマン派」フランス語版第二版への序文
「ルテーツィア」          同上フランス語版への序文(三月)
                  同上への序文・草稿(六月)
フランス語版詩集「詩と伝説」    同上への序文

 このリストを一応の手がかりとして、ハイネの序文群が無意識のうちにひきよせている問題へ接近してみよう。いうまでもなく、序文は、問題提起の出発点である序論とは異なり、我々の前におかれた作品の冒頭にあるとはいえ、表現過程では、包括の過程として、結果として現われるのであって、決して出発点としては現われない。この確認は、ハイネにおける長い序文の多さ、一八三〇年代前半における序文数の多さ、同一作品に時間をおいて複数の序文を与えている事実と共に、ハイネの特質を論じることの意味を重くしているはずである。私は、ハイネの文学空間の動揺性の検討を個々の作品についておこなう前に、序文という形式をとりながらハイネの意識内部においても生成し崩壊しつつある過程的なものを追求していきたい。そうでない限り、評価の軸を思想におくか表現におくかに関係なく、ハイネの作品論は、私たちの現在到達した段階から、補完的な枠を設定し、ハイネの欠陥を測定するという空虚なものに収斂していくのではないかという危険を感じる。
 ところで、ハイネに多くの序文を要求した条件を想定すると、大体次の三つになる。これらは複合している場合が多いのは当然であろう。
 一、ドイツ語の作品をフランス語で翻訳出版したとき、またパリからドイツ語の作品を
  書き送ったときに、フランスとドイツの状況の差を考慮に入れて書く。
 二、作品が書かれた時期の発禁・検閲による圧迫や出版者の修正・削除について何年か
  後に言及する。
 三、自己の批評的立場、思想の軸が変化したことを、以前の作品発表時と現時点の関係
  において表明する。
 具体例を追っていくと、まず、一八三〇年の七月革命の後にパリへ移住したハイネは、異国の新しい読者へ作品を手渡しながら、次々と序文を添えている。
 「文体、思考の連関、推移、着想、特殊な表現方法──要するにドイツ語原文の性格は可能な限り、一語一語、フランス語訳『旅の絵』に移されている。」
 この序文は、当然のことをのべているようであるが、逆にパリでかかれた作品がドイツで出版されるとき、大きな制約を受けたことを考えれば、ハイネの解放感をうかがうことができる。この解放感は「私は七月革命後、私の表現方法にある変化を与えようと考えた。」という方法上の解放感をひきおこし、また、次のように、状況への没入という形さえとるに至る。
 「もう、これ以上書いていられない。窓の下の音楽が、私の頭を酔わすのだ、リフレインがますます力強く響いてくる。
 Aux armes , citoyens ! 市民よ、武器をとれ!」(「旅の絵」への追記・一八三〇年十一月)
 これとは逆に、ハイネがドイツの読者へ呼びかけるときはどうか。
 「ドイツの思想の上にその黒・赤・金の旗を掲げよ。この旗をもって自由な人類の旗じるしとせよ。そうすれば私は喜んで自分の心臓の血を捧げよう。どうか安心してほしいが、私は諸君に劣らず祖国を愛している。いや、この愛のためにこそ私は十三年間流謫の生活を送ってきたし、またこの愛のためにこそ、ぐちもこぼさず、いやな顔もみせず、おそらく永遠に流謫の生活へ帰っていくのだ。」(一八四四年「ドイツ・冬物語」への序文)やはり、特定の状況にある読者への呼びかけという姿勢がつらぬかれている。この目的性は、読者の反応に対する配慮へ至る場合が多い。たとえば、一八三二年の「フランスの状態」への序文でハイネは「一にぎりの田舎貴族たちは、この国民を、しかも火薬と印刷術と『純粋理性批判』をつくりだした国民を瞞着しうると妄想している。」という文章を中心にして激しくドイツの支配者を攻撃したが、その直後「序文への序文」を更に書き加えている。この「序文への序文」という発想自体、ハイネのゆらめく未完性と自己増殖性を暗示し、たとえば「批判の批判」という風な発想との差異を考えさせる。ハイネはこう付け加える。
 「私は今『フランスの状態』の序文について更に書き加えるけれども、私が現在のドイツの権力者を特に刺激し、傷つけようと意図していると思ってほしくない。私はむしろ、私の表現を、真実を損なわない限りやわらげようと試みたのだ。だから、あの序文は、ドイツではいまのところ激烈すぎるという批判を聞いても、殆んど苦にしていない。」
 しかし、ハイネが、反響や検閲という条件につよく関心をもっていたのは勿論である。一八四〇年代にパリからアウグスブルグ一般新聞へ送った通信文をまとめた「ルテーツィア」をドイツ語で出版した後に、ハイネは直ちに仏訳を出しているが、その序文には次のような意図がのべられている。
 「多くの教養あるフランス人においてさえみうけられるドイツ語理解力の欠除のために、我が同胞の一部の男女が、私が著書「ルテーツィア」でパリを罵ったとか、フランス人に尊敬されている人物や事物を陰険な冗談でこきおろしたと多くの人々に信じこませる結果を許したのである。従って、できる限り早いうちに私の著書のフランス語訳を出すことは、私の強く願うところであった。」ハイネの読者に対するこのような配慮は、たとえばヘルダーリンが「ヒュぺーリオン」への序文で読者への配慮から作品構成を変更しようとしたことへの恥しさの表明と対照的であって、ハイネの特質を逆証明している。
 ハイネの表現における目的性、現実への関心は、同時に表現を規制する外的な力への意識となって現われてくる。序文に示されたものをいくつか年代順に上げていこう。
 「尊敬すべき検閲官の色々な要求を避けるために、私はしかたなく、一定量の錫を鋳物の中へ投げ込んだ。」(「旅の絵」への結語・一八三〇年)
 「私が最初に発表した雑誌「文学の欧州」では、いま私がここに印刷しているうちの数ケ所が欠けている。雑誌の経済が数ケ所の省略を要求したのである。」(「ロマン派」第一版への序文・一八三三年)
 「次の詩を私は今年の一月パリで書いたのだが、当地の自由な空気は、本来私が好む程度以上に鋭く、多くの詩句の中に吹きこんでいた。私はすぐに、ドイツの気候に耐えられないと思われる個所を柔かく書きかえたり、削除したりした。」(「ドイツ・冬物語」への序文・一八四四年)
 「この詩の内容と形式は、その雑誌(注・ラウベ編集の「エレガンテ・ヴェルト」)のおだやかな要求に応じなければならなかったので、私はまず印刷を許される章だけを書いていったのだが、それもかなり書きかえられた。」(「アッタ・トロル」への序文・一八四六年)
 「この本の第一版が印刷を終えて私の手元にきたとき、削除されたあとが至るところに見出されたので少なからずおどろいた。ここで形容詞が、あそこで挿入句がぬけ、論述過程などおかまいなしに、まとまった個所がはずされ、その結果、意味だけでなくしばしば意図そのものが分からなくなっていた。神への恐れ以上に、地上の皇帝への恐れが、削除という行為をまねいたのだ。」(「ドイツ宗教哲学史」第二版への序文・一八五二年)
 「読者の公正な判断によって、この書簡が最初に印刷されたときに著者がたたかわなければならなかった場所的ならびに時代的な困難さが考慮に入れられることを期待する。……場所的な困難というのは検閲に、しかも二重の検閲にあるのだ。というのは「アウグスブルグ一般新聞」の検閲はバイエルンの役所の検閲以上にきびしかったから。」(「ルテーツィア」フランス語版への序文・一八五五年)
 一八三五年のドイツ連邦議会によるハイネ以下、青年ドイツ派の著書発禁決議に集中的に示されているように、ハイネは表現を制約する力に直面せざるを得なかった。かれは、いまから見れば微細な事象をくわしく論述し、さまざまな比喩や寓話化を試みている。表現を制約する力への直面ということでレーニンを想起すると、かれは「なにをなすべきか」への序文で、微細な対象に関する論争も状況の根源をついていれば意義をもつと語り、「帝国主義論」への序文では、検閲を通過させるために例証を日本に求めなければならなかった苦痛をのべている。ハイネの文学的活動についても、これと同じことがいえるであろうか。ハイネは当局と出版社の二重の検閲とのべているけれども、実は三重の、つまり著者そのものの動揺という内部的検閲も無意識のうちに存在したのである。ここにこそ、ハイネが序文という作品に外接する空間において外部的検閲にふれながら、いつの間にか思想変化を告白してしまう事態の要因がある。
 「私自身が神の慈悲を必要とするようになってから、私は全ての私の敵たちに特赦を与えてきた。身分の非常に高い人々や非常に低い人々について書いた多くのすぐれた詩も、それゆえこの詩篇には入れないことにした。いくらかでも神そのものに対するあてこすりを含んでいる詩を、私は不安にかられて火の中に投じた。結構なことに、詩は三文詩人よりもよく燃える。」(「ロマンツェーロー」への後記・一八五一年)
 「正直な人間には、どんな場合にも自らの誤りを公けに告白するという永久に意味をもつ権利が残っている。そして私もこの権利を恐れずに行使したい。従って私は包みかくすことなしに、私がこの本のうち、とくに神という大問題に関している部分は全て誤っており、考えが足りなかったことを認める。」(「ドイツ宗教哲学史」第二版への序文・一八五二年)
 ハイネの転向として、よく引用される箇所であるが、ここでいう神を神学的に解さず、「現実ともつれ合い、からみ合い、いわばその中に閉じこめられている」と思われた、ハイネの内部意識の荒野への怖れと解すべきであろう。表現された言葉の表象にとらわれさえしなければ、ハイネの全ての表現は一つの大きな動揺の告白の連続であったということもできるのだ。しかし、ここで誤りの告白が、序文という公開の空間でおこなわれているのに注目すべきである。それはハイネの公正さを示すようであるが、実は、ドフトエフスキーが「地下生活者の手記」で言及しているように、ハイネは生涯にわたって「公開の告白に真実は含まれていない」という考えを抱いていた。(例。アルフレッド・マイスナーなどとの談話)いくつかの重要な問題に対するハイネの批評は、その後の自分自身に対して最も適確にあてはまるという奇妙な関係が私たちを驚かせるのであるが、この場合もそうである。ハイネも、この奇妙な関係を予感していたにもかかわらず、全ての表現に、あえて公開的な性格をもたせようとしたために、一種の無理が生じたと考えられる。自らの動揺を他への顧慮なく追求する態度が、無意識のうちに減殺され、同時に、そのために、公開された表現が不充分なままで放置される結果を招いている。現代の私たちも、意識の根拠の変移を、自己弁護のかたちで表明するのでなく、眼にみえない領域で、沈黙のまま、なだれのように崩壊し、表現にならないまま消え去ろうとする自己の中の呻きに耳を傾けつつ、他への顧慮なく表現していかなければならない。
ところで。私は、ハイネの序文群を必要ならしめた条件について考察してきたが、先に上げた三つの条件は、互いに他を導きながら循環していると考えられる。告白の場としての序文群で下降的崩壊という形をとっているハイネの表現の特質は、革命直後の序文群で上昇的高揚という形をとっている表現の特質と方向は異なっても同一の流れに属しているからである。もしそうであるとすれば、私は、この循環の底にある表現の特質を追求してみたい。
 ハイネの表現における特質は、付加性、断片性、変化性ということができる。まず、かれの作品の詩篇、散文のいずれもが付加性を帯びており、序文群においても、序文という概念を無視したような饒舌が続き、とくに著しい例は、「旅の絵」結語(一八三〇年)における投獄された皇帝マキシミリアンを慰める道化クンツ・フォン・ローゼンの話、「ドイツ宗教哲学史」第二版への序文(一八五二年)における「ヘーゲル学派の門番」ルーゲへの言及などである。ハイネの饒舌は、光彩を放つ名文になるかと思えば、不必要なほど低空飛行するが、この揺れがハイネの思想的、方法的な転機に立つとき現われてくることは注目すべき事実である。そして、序文という形式がすでに付加性を帯びており、ハイネの付加的に開かれた表現意識に適合していたことも重要であるが、いまは紙数制限のため、序文群の全文を訳出して検討することができない。またハイネの断片のままに終ったいくつかの小説(例・「バッヘラッハの師」〝Der Rabbi von Bacherach〟)や、断片性を逆用した警句風の散文群についても別の機会に論じてみたい。
付加性は表現の核心において断片性への傾斜と交差している。ハイネ自身も、断片性を自覚していくつか序文の中でふれている。そのうちで興味深いのは「ドイツ宗教哲学史」の第一版、第二版のそれぞれに、自らの作品の断片性に言及しながらも、その断片性の評価、これからの取り扱いに関する方向が全く相反することである。
 「……出版社からの催促、出版社の財政の悪化、研究資料の不足、フランス語を使いこなせないこと……などのために、ここにある本は、みかけのまとまりにもかかわらず、より大きな全体の断片であるにすぎない。」(「ドイツ宗教哲学史」第一版への序文・一八三四年)
 「ここにある本は、断片的なものであり、断片のままにとどめるべきものである。正直にいえば、この本を印刷に付さないでおけたらと思う程だ。この本の第一版が出てから以後、多くの事柄、とくに神についての私の考えがずい分変り、いまのよりすぐれた確信と矛盾しているからだ。」(「ドイツ宗教哲学史」第二版への序文・一八五二年)
 また、自己作品の未完性に関して、微笑を浮かべながら語っている文章がある。
 「そして「アッタ・トロル」も、ケルンの大寺院や、シェリングの神や、プロイセンの憲法などのようなドイツ人の全ての大事業と同じような目にあった。──つまり、それは完成しなかった。」(「アッタ・トロル」への序文・一八四六年)
 ハイネの断片性は、かれの思想・表現における不安定さと深い関連をもつけれども、あらためてハイネの序文群を見渡すとき、問題の根底にあるのは、表現主体の動揺・変化性であるのに気付く。この特質を、ハイネの空間意識、時間意識から追求してみよう。手がかりとなるのは、すでに引用した「ルテーツィア」への序文における次の文章である。
 「……著者がたたかわなければならなかった場所的ならびに時代的な困難さが考慮に入れられることを期待する。」
 表現の自立性にあくまで固執せずに、困難を考慮に入れよというのは、ハイネの弱さであろうが、かれも本質的な地点では、この言葉にかかわりなく不敵な、かつ祈りに満ちた貌をしていたであろう。私はただ、ハイネのとらえた「場所的ならびに時代的な困難さ」の意味を考えてみたい。それがハイネの表現意識を決定していると思うからである。
 先にのべたように、ハイネは、場所的な困難さということを、当局および出版社による二重の検閲であるといった。具体的な調査をしていないので、その程度がどの範囲にまで及んだかは論じることができないが、かりに、これらの二重の外部からの困難がないと仮定した場合に、ハイネの表現はどうなったであろうか。私は、やはり民主的原理という、ハイネの終生抱き続けた理念が、付加的・断片的な幻想と相乗されて作品を生み出していったであろうと想像する。問題は従って、ハイネの内部的な困難さ、つまり、自らの民主的原理や幻想性自体の批判的な対象化へ、かれの力が注がれなかったことにあるのだ。
「私は、愛撫や陰謀によっても、脅迫によっても無智や誤りへ引き裂かれない勇気をもっていることを誇りとしている。自分の心臓が要求し、理性が許す限界にまで歩めない者は臆病者であるし、自分が望む以上に歩むものは奴隷である。」(「フランスの画家」への補遺・一八三三年)
 たしかにハイネはこの意味では臆病者ではなかったけれども、それゆえに奴隷に近ずいたのではないか。「サロン」第一巻への序文(一八三四年)において、ハイネは、「私は自由の奴隷である。」というロベスピエールの告白を引用しながら「理想が我々をつかむ」ときの抗いがたい力について語っていた。その圧倒的な力を受けとめることができたのは、当時のドイツの水準をはるかに越えたハイネの運動性をもつ抒情のありかたに要因をもっているのであるが、
 「……海が、その秘密をもらしたら、世界を解く言葉を心臓にささやいたら、休息とはお別れだ、静かな夢とはお別れだ、私がすでに、あんなにうまく書きはじめて、いますぐにでも続きをかいていこうとしている小説や喜劇ともお別れだ。」(「サロン」第一部への序文・一八三三年)
 という風に、内部の表現意識の連続性が、外部状況の変化によって断絶してしまう。外部の革命的状況にのりうつって発想することの空しさは、現代の私たちも深く自戒しなければならない。ハイネの言葉をかりれば「自分の心臓が要求し、理性が許す限界にまで」歩み、かつ「自らが望む以上に」は歩まず、いわば、この限界線を平面にではなく垂直に上昇・下降しながら、外部の状況と内部の抒情をつなぐ関係を究明すべきであろう。ハイネの表現方法における移行は、国境を越えるほど容易ではなかった。その象徴的な苦しみが、「新詩集・序詩」に現われている。
 ハイネがのべている場所的な困難さは、必然的に時代的な困難さと結合しているけれども、
 「一般に、私の最近の意識から生じる作品は、つねに時間的状況に制約されている。」(「ロマン派」第二版への序文・一八三五年)という文章に示されるように、ハイネの意識においては、外部からの時間が、主体的時間よりも優位を占めており、そのことへの自覚のあいまいさが、思想過程におけるかれの批評主体の未確立と対応しているといえよう。
 ハイネは一八三〇年の七月革命を軸として、時間概念の区分を意識し、Periode(期間、時間、時代)という言葉をしばしば用いている。
 「この作品を、私は決して孤立した姿においてでなく、一個の生活期間Lebensperiode の終結であり、同時に世界期間 Weltperiode の終結と一致するものとして提供する。」(「旅の絵」第四巻への序文・一八三〇年)
 「最近まで愛国的頑迷の期間に in der periode einer patriotischen Beschränktheit あらゆる方向から聞こえていた中世の残響」(「旅の絵」第二巻第二版への序文・一八三一年)
 「ドイツにとって、否定の期間 La période des négations =die Periode der Verneinung は、まだ過ぎ去っていない。それは、やっと始まったばかりである。」(「旅の絵」フランス語版への序文・一八三四年)
 この用い方は、ハイネがゲーテを批判するときの「芸術時代の終り」Das Ende der Kunstperiode という用い方と同じである。状況の転移と、表現方法の転移を短絡させてしまったところに、ハイネの悲劇があるのではないか。なぜなら、表現史の転移は、外的に強制されるのではなく、状況と表現主体を結ぶ関係が、言語造成の総体的把握を必然的に変化させるときに生じるのだから。表現史に限らず、一個の主体の思想史においては、内部変革に媒介されない限り、いかに状況が決定的な転換の意味を内包していても、表現者自体の内部で Periode をおしすすめることは不可能なのである。
 ハイネにおいても、後進ドイツでの苦しみから一八三〇年の七月革命の成果へ、そのまま乗り移ったこと、しかも低次の市民革命の段階の中に、革命の究極的ヴィジョンを錯覚してしまったことが逆に、一八四八年の二月革命の敗北後、ひたすら後退をくりかえした結果として現われている。かれは、状況と表現方法を短絡させていたため、傷はより深かった。しかし、これによってハイネの文学的活動の意義が消えるわけではない。先にのべたように、ハイネは自らの表現が過渡期における、ある根源的な要因に根ざしているのを自覚していたし、後世の読者が、ハイネのたたかいを、かれと同時代の人々が怪物や巨人に対する原始人のたたかいに対して感じるのと同じような微笑をもって眺めるであろうことさえ知っていた。この条件・限界をみつめつつ、それを逆用して自己の抒情をのめりこませていった点にハイネの意義を認めたいと私は考える。このこととハイネにおいて、しばしば本文よりも序文ないし後記の方がすぐれているという逆の現象が生じることの間には深い関連があるのではないか。
 その要因をいくつか考えてみると、まず、ハイネの資質からいって、本文がつねに未完、断片の傾向を帯びているため、全体を見通せる序文空間に立つとき、全体への統覚が、より強く機能する。また、同一作品が、異なった条件の下で再版される場合も、自己の表現史をふりかえる機会を与えられる。これらの外に、ハイネが状況と内部意識の緊張関係を明確に追跡し、言語の意味が外部の指示にとどまらず、いわば言語の内部に浸透してくるように書きはじめる比率が、序文を書く場合に大きいと考えられる。
 にもかかわらず、ハイネは、序文群にゆらめきでる抒情の力学をとらえつくすことはできなかったようである。このことを象徴する文体を対比してみよう。
 Ich weiß nicht , welches wunderliche Gefühl mich davon abhält , dergleichen Vorworte , wie es bei Gedichtesammlungen üblich ist , in schönen Rhythmen zu versifizieren .
 (自分にもよく分らない不思議な感情が、詩集をつくるとき普通であるように、美しい韻律をもつ詩句によって序文を書くことから私を制止する。──「歌の本」第二版への序文・一八三七年)
 Ich weiß nicht , welche sonderbare Pietät mich davon abhielt , einige  Ausdrücke , die mir bei späterer Durchsicht der vorstehenden Blätter etwas allzu herbe erschienen , im mindesten zu ändern .
(自分にもよく分らない奇妙な畏敬の念が、書きおえた草稿に後で目を通して、少しきびしすぎると思われる数ヶ所の表現をいくらかでも書きかえることから私を制止した。──「旅の絵」第四巻ほの追記・一八三〇年)
 構文のみならず、何ものかを予感する、ハイネの抒情のかたちまでが驚くほど類似している。とくに書きだしの言葉は一八二〇年代にかかれた詩「ローレライ」の冒頭の句「なじかは知らねど、心わびて」Ich weiß nicht , was soll es bedeuten , daß ich so traurig bin ; を想起させる。この句が、ハイネの全ての表現の核心に秘められており、表現主体がある危機に面したとき、さまざまなかたちをとって言語の表面へ上昇してきたのではないか。この論理化を中絶したままで「何ものか」を語るのは、ハイネの根源的な特質である。序文や後記には、それが著しい。
 「哀れな、幽閉された国民よ!困苦の中にあっても絶望するなかれ!……
 私の胸から氷の堅い殻が溶け去り、奇妙な憂愁が私にしのび寄る。──それは愛であろうか。本当にドイツ国民に対する愛であろうか。あるいは、それは病気であろうか。」(「旅の絵」への結語・一八三〇年)
 「たくさんの人々、たとえば私の母が、祖国で私を愛してくれた。──しかし、私は何故か知る由もなく、ただ、そうせざるをえなかったために出かけたのである。……その後、私は疲れて気が沈んだ。」(「サロン」第一巻への序文・一八三三年)
 「勝ち誇るプロレタリアートが、全ての古いロマンティックな世界秩序と共に亡びるであろう私の詩を脅かす破滅のことを考えるたびに、言語に絶する憂愁が私をとらえる。」(「ルテーツィア」フランス語版への序文・一八五五年)
 詩から状況参加の散文へ向かわせたのも、未完の断片的な本文から序文をはみださせたのも、共にハイネのこの根源的な特質に由来している。あるいい方をすれば、ハイネとは静的な抒情を、状況を媒介として、そのことがひきおこす欠陥を半ば意識しながらも、止むをえず運動させていった文学的事件なのである。さまざまな時期、内容、意識の境界線を、分裂しながら走り抜けていくハイネ的な表現主体を、現実過程の歴史と幻想過程の歴史のある交差点が要求し、かれを通じて語りかけているように思われる。「ローレライ」のひびきが、大衆の中に生き続けているように、ハイネの文学的な苦戦の呻きを、一段と困難な過渡期にいる私たちは意識的に受けとめ、発展させていかなければならない。その際、ハイネの Ich weiß nicht の構造と、私たちの Ich weiß nicht の構造の関連、力学の分析が必須の課題として浮かび上ってくるのであるが、その作業の展開は、この序論とは別の空間と時間に属している。ここまで書いてきたとき、新しい疑問が刺のように突きささってくるのである。序論というかたちでしか書けない段階があるのではないか。もし、そうであるとすれば、その意味を追求していくことなしには、序論を書く意味もなくなってしまうのではないか。
 最後に、ハイネの序文から次のものを引用しておく。
 「……このような未完の形で、恐らくは内心から生じるのではない欲求に従って、私はいまこれを読者の手にわたす。」(「アッタ・トロル」への序文・一八四六年)
                                松下 昇