註・主に大学教員たちによって立ち上げられた「五月三日の会」によるその「通信」は、〈大学〉闘争における被処分者の裁判過程を持続的に伝える媒体として、1970年から重要な役割を担ってきた。しかし、情況の後退著しい七十年代後半に至ると、次第に原初性が薄れマンネリ化の様相も呈するようになる。こういった「通信」の状態に総体的な表現根拠の危機を察知した{松下 昇}気付{自主ゼミ}実行委員会は、過渡的に「24号」(1977年10月)の編集発行を独自に試みた。試みはやがて翌年以降の「時の楔通信」に深化~変換されていくことになる。以下は、そのような表現媒体の継ぎ目に位置する「24号」に掲載された怖るべき表現過程の〈一〉つである。原文は縦書き。

 ※{不}出頭過程を媒介する
        {非}存在斗争論(序)

              {松 下  昇}


 召喚されている法廷があり、それに対する自らの対応の仕方を、あらゆるテ―マ~現実的諸問題との関連でとらえ、展開していこうとする試みが、このn年間続いている。国家機関としての裁判所の公判期日の設定の仕方が、ー方的であり、裁判官、検察官、弁護人そして被告人や傍聴人が次第に変化し交代しようとも、{ 私 }の位置は変化や交代から、{ 無 }関係なところで持続してきた。それは裁判の開始された一九七〇年から予測し、覚悟し、応用プランを構築する対象としてきた事態であり、これからあと何年続くにしても、{私}にはやっていけるという確信があるし、また、大学斗争の世界(史)性を、この位相でも開示し抜く責任も感じている。(一九七〇年七月三一日付の「裁判をーつの比喻として展開されつつある斗争に関するレジュメ」、一九七〇年一二月二四日付の「仮装としての被告とは何か」を各参照)
 さて、召喚されている法廷があり、{私}なりの力をつくした経過があり、公判調書があり、その経過を掲載する過程がある……として{私}たちは、いま、どこにいるのか。前述の過程を公判の進行と共にたんに存在する、とうけとめている限り、どこかで国家に対する表現の根拠が風化にさらされる危険を感じる。一つの例を上げると、法廷で、検察側の証人に対して反対尋問をする、というとき、その徹底的展開の必要はいうまでもないが、事件発生の瞬間以降、n年間をへて、いま、このようにおこなっている意味は何か、という問いを内包していない場合、過去の時間性や事実性の固定化(それこそが国家の表現の根拠の一つ)に決してうちかつことができないのである。
 ある情念をたどりつつ、あえていうならば、裁判過程の対象化をおしすすめ、応用しうるかどうかは、仮装性と{不}出頭過程のとらえ方の深さにかかっている。仮装性については、別の位相からあらためて論じるが、即自的~自然的な裁判忌避ではなく、なにかを極限までひきよせ、転倒していく、いかざるをえない方向性での{不}出頭過程は、大学斗争の意味を未踏の領域で拡大していこうとするときに{不}可避の段階であったといえる。従っていま、毎回法廷に出かけているようにみえるとしても、それは、{不}出頭法廷を巡ったあとの、全く別の法廷であるともいえるのである。このことは、慣性的な裁判参加者には決して視えないだろうし、この視えなさは、かれらが現在の廃墟としての<生活>の中に葬られている永続的バリケードを視ないことと必ず対応しているだろう。そして、その視えなさ故にこそ、{私}たちのたたかいも永続する。
 しかし同時に、この視えなさ、を視えなさとして存続せしめてきたのは、{私}たちの力量や諸条件の未成熟の責任でもある。そして、このテーマは、決して大学斗争や裁判斗争の表層的な現象ではなく、現代世界の拡散的危機情況の本質に根ざしている以上、放置を許されないテ―マの一つでもある。
 いま、そのテーマのりんかくに、わずかでも接近するために、次のリストを作成してみる。
  ◎(PDFリスト)
 リストを媒介する問題点を提起する前提として、リストに関する註を記しておく。

一、起訴状A、B、C、Dというのは、次の公訴事実の日付に対応する。A=昭和四四年九月一日、十二月三日、同四五年四月八日。B=昭和四五年一月八日。C=昭和四六年九月七日。D=昭和四六年九月二二日、同四七年二月一五日)
二、公判回数は、実質的な回数を記している。公判調書自体に記される回数は、被告人らの出頭伏況によって手続上の分離、併合をおこなうので、回数がそのたびに増殖していく。関心のある人は問い合わせてほしいが、たとえば、このリストで⑭となつている時点での公判調書の回数は第二九回であり、被告人の出頭状況をふくむ諸関係の複雑さを示している。
三、〇で包囲した場合は被告人の出頭を、<>で包囲した場合は{不}出頭を、それぞれ示す。本来ならば、裁判所のかぞえ方による公判ごとに、全ての被告人の出頭伏況についてのリストを示したいし、その準備もあるが、いまは、問題点を突出させる契機として、この方法をとっておく。
四、裁判官、検察官、弁護人、被告人、傍聴人などの交代、変化についても、前項と同様に、いまはごく一部しか示せないが、必要に応じて開示しうる。
五、このリストを作成する過程の条件についていうと、まず「通信」二べージ分に相当する原稿用紙をつくり、その容量に応じてリストを作成した。また、内容については、被告人にさえ日付その他が宙吊りであったものがあり(召喚伏の{未}開封など)、二度の勾引伏態を転倒しつつ、また、民事裁判や、忌避申立のために必要と主張して公判記録の閲覧をおこない、メモしてきたものを基礎とし、再構成したこと、さらに現在までの調書の謄写は可視~{不}可視の資金カンパ~委託によっておこなっていることを強調しておく。
六、いうまでもないが、このリストに記した日付は、刑事公判に関する{ }公判の基本的なー部である。松下に関するものだけでも{卵}に関する刑事裁判や民事裁判、人事院審理の日付が記されていず、そのn事性と深く対応するいくつもの公判群は、この紙面に出現しないまま渦巻いている。これらについても、さまざまの機会に対象化作業をすすめていきたい。その展開における示唆と共斗を期待する。
七、この表現を目にする全ての人に提起したいけれども、たとえばこのリストにある公判のどれに参加しているか、どの公判の経過を直接ないし間接に把握しているか、を確認してほしい。{不}出頭の意味、公判過程の(通信などの表現媒体への)伝達の意味を、より深くとらえかえすためにも。その瞬間の{不}可視の領域の手ざわりが、私たちの追求の方向性をきめていくであろう。

 (この通信において、刑事公判の経過にふれている掲載範囲は次の通りである。その欠損領域は、問題の困難さと、{私}たちの力不足を示してもいるのだが……。
五号――第①、②公判調書および関連表現。
六号――第③回公判についてのメモなど。
九号――第④回公判調書〔抄〕、第<5>回公判についてのメモなど。
十八号――第⑳、㉑回公判調書〔抄〕
十九号――第㉒、㉓回公判調書〔抄〕
十一号――第㉔回公判調書〔抄〕
二十二号――第㉗、㉘、㉙、㉚、㉛、㉜回公判調書〔抄〕
二十三号――第㉝、㉞、㉟、㊱、㊲回公判調書〔抄〕
二十四号――第㊳、㊴、㊵、㊶回公判調書〔抄〕
 なお、ここでは、民事公判、人事院審理などの掲載については省略してある。)
 前記の註をふまえて、リストを媒介する問題に入っていこう。
 まず、被告人、松下が持続的に{不}出頭している時期をみると起訴状Cについて特徴的であるが、S・四七・四・二七からS・四九・六・一三の二年以上にわたっている。起訴伏C、Dについて、全期間の出頭は勾引されたときのみである。最も初期から開始されている起訴状A、Bについては、前記の持続的{不}出頭期間より前に、先駆的にS・四六・十一・一七の{不}出頭があり、これについては、同日付の >二十一号法廷への出頭声明< (「通信」では第九号に転載)を参照してほしい。その後の{不}出頭のうち、第<ー七>回、第<二五>回については、それぞれ重要な意味があるが、それまでの{不}出頭とは逆の方向性をもっているので、いまは、持続的{不}出頭の期間に焦点をしぼることにする。
 この期間の{不}出頭を、もし権カの水準からみれば、迅速な審理~裁判所の手続への妨害であり、勾引ないし勾留の理由を構成していく。
 ところで、個々の起訴事実を審理しようとする裁判所には視えないとしても、{私}にとっては、刑事公判の{不}出頭以外に次のような{不}出頭の系譜があり、それらとの関連で刑事公判への{不}出頭もあったのである。断片例を示すと……
 一九六九年二月二日以後の教授会 <欠席>。
 一九六九年<三・ 一 >事件に関する任意出頭要求の拒否。
 一九七〇年五月に逮捕令状が出ていることを知ってからの<潜伏>~。
 一九七〇年十月~十一月<ラクガキ>に関する告訴~任意出頭要求の拒否。
 一九七〇年七月に処分審査評議会が設定した笫一回陳述の埸への{不}出頭。
 一九七一年七月の人事院審理第<四>~日への{不}出頭。
 一九七一年九月十日の研究室公判(民事)に、 B一〇九斗争で逮捕されていたため、勾留尋問で
  法廷の近くにいたにもかかわらず、出廷を阻止された事態。
 一九七一年十月一日公判での監置処分のために十月五日の、もうー名の被監置者の審問請求法廷と、
  十月八日の第一回南山大学公判に参加できなかった事態。
 一九七一年十一月の代理人会議(岡山)に共同労働~の試みのためにも出席しなかった関係性。
 以上は、ごく一部の例にすぎないが、被告人が裁判斗争の過程で傍聴席にいたとして{不}出頭の扱いをうけたり、法廷の入口まできていたのに保釈をとり消されたり、という{私}たちの共斗者のケースを包括して考えると、{不}出頭をたんに審理との距離ない自らの発想の水準で論じることが、いかに錯誤であるかということは明らかである。確信をもっていうが、{私}の{不}出頭を、斗争にとってマイナスとみる方向で異和を抱くものは全て斗争の本質からはじきとばされている。
 リストを媒介する持続的{不}出頭の期間の問題にもどろう。この期間の序曲のように、被告人の分離、弁護団の辞任があり、それを氷山の一角とする全ての問題(共同幻想のみならず、対幻想、個的幻想~)の再把握が迫られていた。{私}は、これを大学斗争の世界(史)性を存在領域の基底から問いなおす契機として応用しようと試み、この期間中に、次の三項目に要約しうることをさまざまな誤解に耐えて〈 〉の内外に鳴りひびかせようとした。
 α、斗争参加者の時間性の軸を変換させる。
 β、宙吊り表現の度合を対象化する。
 γ、{不}確定性への祈りからの出立。
 一行の表現にいたるまでの、また、一行の表現を媒介するヴィジョンには、生涯をかけてとりくむべき重さと多彩さがあるのだが、ここでは、{非}存在斗争として対象化されつつあった試みが、どのような過程をへてきたか、をまず、刑事公判について素描しておく。今後、n事審理の総体についても展開していきたい。
 リストをみれば推測しうることであるが、持続的{不}出頭の期間という場合、裁判所、弁護団、被告団~にとってn重に困難な期間であったといえる。たとえば、起訴状A、Bに関する公判は第〈一二〉回から第〈一三〉回まで一年間も期日設定されておらず、同様の隔絶は起訴状C、Dについての期日設定にも波及し、起訴状Dに至っては、公訴が提起されてから一年以上も第一回公判の期日設定がなされていない、という有様である。これに対して、リストには現われていないが、この期間に{私}から〈分離〉して審理される公判は、自然性のリズムで持続していた。起訴状A、Bからの〈分離 〉公判は、S・四八・一・二五、三・八、五・十、六・二、六・二一、七・七、七・一四、九・二二、十・二五、十一・八、S・四九・一・一八、一・三〇、二・八、五・一七、七・三一~、起訴Cからの〈分離〉公判は、S・四八・二・二八、三・九~、十・二四、十二・十二、十二・二六、S・ 四九・一・二四、三・一四、五・九~、起訴状Dからの〈分離〉公判は、S・四七・六・一、七・八、九・二一、十一・九、一二・一四、S・四八・二・二、二・二三、五・二三、 七・九、九・一二、十・二六、十一・二八、一二・一九、S・四九・一・三一、三・二三、四・二三、五・九~ という風に。これらは{私}が確認しているものであり、これ以外にわたっている可能性はもちろん存在する。
 このような事態に対して{私}は放置しておいたわけではなかった。
 起訴状A、Bに関する第<九>回公判の日付(一九七三年一月二四日)で、(同一日の <研究室 >公判へむかいつつ)、次の文章をふくむ >二十一号法廷の<被告団会議>に対する証言< を提起している。
 「まだ出会ったことのない領域での真の統一のためにも、〈私〉は、しいられた〈併合〉 審理へは〈不出頭〉し、なにかから〈分離〉されている審理への〈出頭〉を持続していく。」
 また、全ての起訴状に関する公判について一九七三年三月~五月の段階に「それぞれの〈被告〉が、真の共同性を追求しつつ、自らの公判を過渡的に消去し、なにものかへの〈併合〉要求の過程で生じる問題を><公判として出現させる。」という方向性を、裁判所を媒介に提起した。ここでいう〈公判〉は XX公判(※書写上の註→このXXの実際の形象は><と<>のとんがりの頂点が接する形ではなく相互に突き抜けるように重なり合っている。以下同じ)~{ }公判へその後飛翔していくのであるが、その段階では、{前}共同被告人たちからの硬い異和に出会うことになった。しかし、{私}は先述した〈分離〉公判の系列に、できる限り出頭し、契機に応じて被告席に存在したり、求釈明~反対尋問の作成~展開に参加し、その成果は予想をこえるものがあった。裁判斗争の位相を、大学斗争の極限的追求の一つの場として〈神戸〉だけでない<>~ XX~{ }へ深化拡大していく試みは、一九七二年冒頭から開始された< >焼を対応する転換軸として飛翔を続け、現在に至っている。
 {不}出頭への報復は、法的にもやってきた。一九七三年八月八日(金大中事件の日)の勾引がその一つである。勾引を執行した警察官たちは、直前の六月二十日と二十八日に、竹本信弘に関する犯人隠避容疑で{私}の住居をふくむ二十数ヵ所(この範囲は、全国的な<>~XX焼売場であるともいえる)を捜索~差押えした警察官たちと重複しており、{私}は法廷へ勾引される前に、県警本部へ連行された。
 〈勾引〉を媒介して{私}は、九月十二日付で、「……勾引状を発した裁判官〔…〕(と)同時に、それを通じて、〈八・八〉公判が開示しつつある意味を把握しないままで慣性的に進行する審理の総体を忌避する。」と申し立てた。{私}は、ある配慮および必然性から申立の理由を〈一部〉しかのベなかったので、その後、裁判所から申立理由書提出のとくそくがきた。これに対して{私}は、「忌避申立理由書の作成、提出……に関する作業を〔…〕仮装被告(団)へ委託」すること、「その旨を裁判所から連絡して」ほしいこと、を十一月二十二日の〈研究室〉公判の〈証言〉にいたる過程で提起した。このため、裁判所を媒介する公判関係者は深刻な問いにさらされ、この忌避に対する却下の決定は、翌一九七四年三月二八日まで六カ月以上も遅延されざるをえなくなった。

 この忌避の申立から却下に至る過程に含まれる事態の意味は、{私}が、この決定を四月十三日になって、やっと岡山刑務所内でうけとった、という事実性から極めて鮮かに照射されている。一九七三年秋から年末にかけての{坂本}氏の乞食巡礼~が、岡山地裁によって、それ以前からの持続的{不}出頭過程を飛翔させたものと認定され、{坂本}氏は一九七四年一月三十一日に{私}の目の前で勾引され、以後、四月十二日の判決まで勾留が持続した。この期間にくりかえされたn回の忌避は、忌避の極限をさらにふみこえる息づかいをもっていた。この問題との深い関連において、{私}は一九七四年四月一日にくだけ散った法廷で{卵}を媒介する監置二十日、釈放直後の逮捕、起訴という過程を巡礼することになるが、これによって、国家機関としての裁判所、検察庁は、地域の枠を横断して、{私}に関する{卵}や{不}出頭を総括せざるをえなくなった。昭和四九年四月二五日の松下昇に対する勾留請求却下取消決定において、岡山地裁の裁判官(大森、白川、前田)は、岡山、神戸両地検、兵庫県警の報告書をうのみにしつつ、「昭和四七年四月二七日から同四八年九月一四日まで」の持続的{不}出頭期間を逃亡のおそれの根拠としてのみ指摘し、「公判審理中裁判官に対して暴行を加えるという未曾有の不祥事」と共に、勾留の必要な理由としている。これに対して、一九七四年五月四日の勾留理由開示公判において{私}は、{不}出頭過程についての把握の錯誤を粉砕し、保釈を獲得できた。
 それ以降の{私}に関する刑事公判は、{不}出頭過程を止揚するかたちで、かつ、〈岡山〉、〈神戸〉両地裁の公判の特性を垂直交差させつつおこなわれてきた。また、{私}の{不}出頭過程と位相的〈対〉としてもとらえうる他の被告人たちの{非}存在斗争との連続性~横断性をも把握していかなければならないが、ここでは、その重要性を示唆するにとどめておく。
 「なにものかへの本質的出廷という姿勢は、{私}にとって第〈一〉回公判以降、連続しており、転倒されたのは、{私}と法廷の関係性を、あるときには出頭、あるときには不出頭とみなした視点および、その存在の様式そのものである。」(S・四九・十一・二八公判における意見表明から)
 この表現のはじめからいままでのベてきたテーマとしての{不}出頭が、何の比喻でありうるか、どのような応用が可能かを問うていくことが、今後の{私}たちの作業の基礎条件の一つになるであろう。
 なお、いまは、その内容にわたってまで展開しないが、{不}出頭のテ―マと密接な関連をもつ、診断書のテーマがある。{私}の刑事公判と対的な位相にある昭和四九年九月六日の研究室公判の証人、同年九月一九日の岡山地裁{卵}裁判の被告人、昭和五十年七月二八日の名古屋地裁の被告人のそれぞれの{不}出頭に関連する診断書が、{うみ}のむこうの医師~によって準備され、応用されその過程で交差する関係性との格斗が現在の宙吊り情況に深い意味を開示しつつあることを指摘しておく。