(註・1963年に神戸大学に赴任した松下は、60年安保闘争を存在論的に対象化しつつ新たな表現運動の模索を開始していた。この短文は64年に夜学の講師を併任したことを契機に執筆、65年1月の「神戸大学第二課程新聞」に掲載された。)

奇妙な夜の記憶

 私もかって夜の学校にかよったことがある。といっても 何かの資格を得るためではなく、むしろ捨て去るためであった。
 数年間にわたって続いた政治的思想的な激動が、仮装的な平和に移行しており、私は当分の間模索の泥沼をはうことを決意しながら、昼は飢えをしのぐためのアルバイト、夜中はメモを二三枚かいて破るという生活を続けていた。
 そんな頃、ふとした機会に一枚のビラを受けとった。「自立学校への招待」……自立とは、大闘争に敗北した諸組織の間で呪文のようにとなえられていた言葉であったが、誰も統一した解釈があるとは信じていなかった。
 学校、これも一すじなわでは判断しかねる言葉で、ビラの起草者から想像すると新しい組織論への手がかりとでもいったニュアンスを含んでいた。「自立学校は、永久に存在することのできない学校です。名づけようのない人間になるための、ありうべからざる学校です。もしそんな学校があるとしたら……ということを構想し、力いっぱいそれに接近しようとする悪戦苦闘だけがこの学校の唯一の教課なのです。」
 ビラの参加予定者の第一行目には「まずあなた」とかいてある。これが気に入って 私は、巨大なけやきの葉がざわめく夜、会場になっている寺の本堂へのりこんだ。ビラには「授業料はとびきり高くつきます。ひょっとすると、あなたの生涯のすべてをもらうようになるかもしれません」とあったので、タダだろうとたかをくくっていたところ、やはり資本主義社会からは脱出できないらしく、一ヶ月分の会費 五百円をとられ、生徒証をもらった。数十人の学生、青年労働者たちは、大闘争に敗北したという仲間意識と、何も信頼できないという対立意識の双方にはさみつけられて、ぼんやり未来をみつめている風であった。
 その夜は、講師委員会、運営委員会、生徒委員会の三グループが、円環的に機能しはじめることが確認され、週二回ずつ討論が続けられていったのであるがその時々の発言は極めてショッキングなので、一部を思い出すまま記してみよう。
「イデオローグの他に、バタ屋オワイ舟の船頭、女給なども臨時講師にしよう。」
「先生と生徒の区別はない。入れ替ることも可能だ。いや、教えようとしたり教えられようとする者は退学処分だ。自立に反するからな。」
「あのう、どうすれば自立できるんですか…」
「人にきく前に、自分でその方法をしゃべってみろよ。それが自立さ。」
「既成左翼は日和見主義だから自立した行動隊を組織しょう。ピケのはりかた、火焔ビンの作りかたを研究しようじゃないか。」
「そんなことは、ここでなくてもやれるぞ。ここではどんな学校でもやらないことをやるんだ。」
「私は農民ですが、議会主義はダメだということを農村へ宣伝しなければダメではないかと思うんです。」
「政治革命だけじゃ革命は完了しないさ。ありとあらゆる犯罪によって秩序をくつがえす犯罪革命をやり、次には男と女の区別をなくするエロティック革命をやり、究極の存在革命にむかってバク進しよう。」
 フラッシュを聖火のようにかかげた美少年が部屋を一周して、人々の肺を煙でみたし、満場総立ちのなかで、首切り反対の労働者が無期限ストのビラをまいている……。
 当時のメモを見ると、反啓蒙運動をめざしながらも、政治的結集をめざす部分と情念的構築をめざす部分が徐々に対立し、結局は啓蒙運動に転化して行く過程が明らかになる。更に重要なことは、そのいずれにも吸収されず、表現されえなかった可能性が各人の中でくすぶっていたことであり、私をたえず苦しめるのも、この裂け目に引きずりこむ何かの力である。開校後数ヶ月して私は神戸に移り、その後数ヶ月を機に閉校のニュースを聞いた。リァリスティックに見れば愚劣な学校でもあったろうが同時に組織や理論や主体からはみ出してきた人間たちが、それらの限界点で過渡的な実験をし 社会のさまざまな層へ帰って行ったことは一つの意味を持っていたのである。
 数年前の反体制運動が自らの危機を白昼へさらけ出したのと対応して、それを突破する一つの試みとしての自立学校が内部意識の深夜に破産したのだと私は評価している。
 夜をかかえこんだまま夜の自立学校にかよってきた人々の眼の中にあった失望、期待、もどかしさ、生理的反応……などは、現状閉塞を感じている全ての人々のものであると思う。私は 闇に沈んだ テキサスのどこかにあるような学校ヘドイツ語を教える ( 退学処分?)ために通いながらも、あの奇妙な夜の記億を持ちこたえ、論理化し、そのうち、組織化しようという野望に胸をしめつけられている。(まつした・のぼる)