『機構の変革あるいは表現の変革』
昭和44年(1969)第672号 神戸大学新聞
表現は幻想性を媒介としたすべての運動これからやろうとする「表現論」は私自身が何を語ろうとも触れてくるテーマが表現論になるだろうという意味なのです。それはちょうど二月二日の〈情況への発言〉を自分でマジックインキで書いたけれども、それがどういう効果をもつかを考えずにどうしようもなく提起せざるを得なかった。そしてその責任を最後まで背おっていくことにいま思い至っていることに似ています。二月二日以後の表現という問題を一つ提起してみます。二月二日の〈情況への発言〉をした直後に、この教室の壁に〈未知への祈り〉という張り紙をみました。十数人の学生が本質的な連帯を声明した文章です。それを書いた人達を私は全然知らなかった。未知の人が書いた表現であることにまずうたれたし、もう一つはそれが「未知への祈り」という表現をもっていたことです。〈祈り〉という表現は闘争の過程でまるで偶然のように訪れてきた。つまりわれわれの闘争がこれこれを獲得すれば納得するとか、これこれを徹底的に粉砕せよとの形でなしに全く未知なものを含んでしまうという暗示です。 ところで、ある学部の窓に書かれたペンキの文字に気がついた人がいるでしょうか。革命行動委員会略して革行委(カッコイイ)と書いてあります。それから孤独な留年者の連盟略して孤留連、革命的日和見主義者同盟略して革日同等々。二月の段階で現われたそういう表現だけで見ても闘争のいろんな変化が読みとれる。あるいは一年三組連絡ノートというのがあって、なんでも記入しておく。その中に三月中旬のこういう表現があります。〈毎日雑用ばかりしている。それが底辺を形づくっているという確信できる対象がある場合にはともかく、今は一体誰が読んで、誰が答えてくれるのか〉そういう不安感がこの文章の中にある。この表現の中に闘争が沈滞期にあった危機的なものを読みとることができるけれども、われわれが今自主講座運動を提起している場合にも共通していえることでしょう。四月に職員共闘が結成されて、その声明書を読みましたが、ここにもすでにいくつかの表現の問題がある。一つは、言葉にできない不満、つまり言葉にしてしまったら、何か一面的、本当の自分のいいたいことではないという、本質が語られている。もう一つは沈黙そのものが職員の主要な特性であったが、その沈黙を打破り、かつ止揚するという宣言がなされていること。ここで表現という言葉をとらえなおしておきたい。例えば表現という場合、文字とか、音とか色などが想定されるが、その範囲をうちやぶりたい。そのために、いくらか突然ですが、〈小委員会〉という言葉をとりあげてみます。教養部の教授会が六つの小委員会を作って、改革案をねっています。教授会メンバーは百二十名いるのですが、百人以上の教官が何ら今までほとんど発言しなかった。小委員会を作るようになってから六つのグループに分れた。二十人ずつですが、そうなって始めて自分はこう思っていたのだと表現できるようになった。だから小委員会の唯一の功績は自分が発言出来るようになったということです。われわれは闘争の過程で小委員会なるものを問題にする場合、それらがどういう提案をしてくるかということ以上に、教授会メンバーがどれだけ自分の発想の原型につきあたったか、自分の表現の問題をどれだけ追求してきたか、そういうことを含めて批判すべきだと思います。どんな表現でも、それ自体に意味があるだけでなく、表現しようとするときに交差してくる全ての問題をとらえることが重要だと思う。学園闘争自体がそういう方向をもっていると思う。神大闘争は初め寮問題から出発した。しかし出発点の事実が解決されたからといって、闘争が終わっていいものではない。むしろ闘争の契機よりも闘争が持続する過程が問題で、その過程で全ての大学構成員や機構の真の存在の形が見え始めてくる。 〈 〉論大学内の対立という小さなすき間に一切の階級の矛盾と激突が含まれてしまう。そのときバリケードそのものが固定された物体ではなく、闘争の中で、どこまでも運動していく表現としてあります。いくつかの例のあとで、表現とは何かというテーマを一緒に考えてみたい。私はそれを〈 〉論というふうに表現しておきます。今記号の下に〈論〉という字だけつけましたが、カッコ論と言い換えてもいい。〈 〉の中に何を入れてもいいのです。名詞だけではなく他の品詞でもかまいません。つまりカッコの中にこの瞬間何を入れたいかということを一人一人考えて欲しい。そして一人一人入れる言葉が違うのだということの怖しさに気付いて欲しいのです。ここで言いたいことの一つはスローガンと対極にある表現の問題で、唯一のスローガンによって闘争しているとしても、そこに参加する人々は全部あのカッコの中に入れる言葉が違うのです。逆に言うと、違うからこそ一緒に闘争が出来る。話を具体的な神戸大学の闘争に結びつけてみると、評議会のテープ公開論がある。つまり寮問題に関する議論のテープを公開するかどうかで非常にもめた。評議会の意見としては、評議員の発言の自由を犯すことになるから公開できないという見解をずっと貫徹した。しかし彼らは、重大なことを見落としていたか、隠していたのです。それは表現の階級性ということです。易しく言い直すと、大学が今まで幻想的な共同体、つまりその内にいる人達は特に利害関係がないのだという前提があった。しかし、公開したら困るという表現があるのは、逆に言うと利害関係があることを暴露している。 もう一つは表現の権力の度合が違うこと。つまり学生諸君が何を議論してもそれは決定権と結びつかない。しかし教授会なり評議会なりである表現がなされたならばそれは決定権をもってくる。このような表現の階級性と表現の決定権に関する不平等な状態は決して大学だけに限らず全社会にわたってあるということ。これは実は神大闘争が提起した非常に本質的な問題です。 だから神大の闘争が提起された表現の問題をさらにおしすすめていくと、ただ単に機構の変革が問題なのではなく表現の変革と同時的に追求しなければならないというテーゼが出されて来る。 最初配ったビラの中に〈同時性の追求〉という言葉があります。つまり表現を変革してから機構を変革するとか、あるいは機構を変革してから表現を変革するという段階論ではなくて全く同時に変革していくことです。 それは単に神大において追求するべき問題ではなくておそらく世界にある一切の闘争において貫徹するテーゼだと思います。そのためのいくつかの条件を述べてみたい。一つは同時に変革するためには、存在基盤を否定しながら変革しなければならないということ。つまりこの社会で〈何々である〉ということを自明の前提として変革を提起する時それは必ず体制側に巻き込まれるということです。ただこの場合自己否定という言葉を簡単に使わない方がいい。たんなる否定ではなくて分裂した存在を否定するということです。 さらには変革者そのものが変革されなければならない。闘争の初めと終わりで機構は確かに変った。しかし変革の主体が全く変わらなかったというのは非常におかしい。対象を変革することが同時に主体を変革することを含まなければ真の変革ではない。 また機構の変革と表現の変革という言い方は二元論ではないかという疑問を越えること。何故これを言うかと言えば、政治と芸術というような二元論が横行しているからです。この発想のあいまいさを、表現という言葉の使い方からみれば、今まで表現という言葉は文字であれ映像であれ、芸術の中に含まれていた。しかし表現は、決して芸術の領域にだけあるのではない。 表現の概念変革幻想性を媒介にしたすべての運動というふうに表現を規定すれば、デモとかバリケードとかさまざまな階級的な運動とか、あるいは国家という共同的な幻想体は、すべて表現という範ちゅうの中に含まれてくる。だから表現という言葉をそのように使えば政治と芸術という言い方は全くおかしくなり、芸術をやめて政治に移るとか、政治がいやになったから芸術に帰るとかそういう発想がもはや不可能になってくる。同じことが何々と何々という表現の否定に関していえます。例えば大学闘争と反大学運動といういい方は誤っており、闘争の補完物であることを否定するものとして提起されたのだから、闘争全体の表現で言い換えるとき反大学運動にもなるはずです。あるいは、知識人と大衆といういい方もどこからどこまでが知識人で、どこまでが大衆かという区分はない。どのような知識人でもかならず大衆の一員として生活せざるを得ない瞬間があるし、どのような大衆でもある瞬間にはすべての知識人よりも高度なテーマを手に入れていることがある。われわれが今まで無意識に使ってきた何々という言い方がいかに欺瞞的であったか、それを突破していく一つの媒介として、表現という言葉を今使っているのです。ごく簡単にまとめていうと表現という表現を変革せよということである。それから自分自身の表現をもてということ。ただ自分自身の表現をもつだけでなく自分自身の表現とこの世界で最も重要な表現とを結合せよということ。もう一つ大切なことを言えば、それは言葉を越えよということです。今までわれわれのさまざまな動きは無意識のうちに言葉を追いかけてくることでした。〈革命〉でもいい、〈民主主義〉でもいい、〈反スターリニズム〉でもいい、〈コンミューン〉でも〈ソビエト〉でもなんでもいいが何とかしてその言葉の水準に追いつこうとしてきた。しかし今言葉を越える運動というものがどうしても必要になっている。別の言い方をすれば言葉にカッコをつけるといい換えてもいい。黒板に書いたあの記号です。最近諸君の読んでいる新聞にしろ雑誌にしろビラにせよいろいろな記号がたくさん出てきている。例えば、ある新聞の印刷労働者が苦情を述べた。どうして最近の筆者たちはあんなに記号を使うのだろう。自分たちは非常に困ると。われわれの書く表現に記号が増えてきたのはきわだった現象である。また日本だけでなく全世界的な情況です。全世界的な激動と対応して記号が増えてきたということは逆にいうと人間の表現の上にある大きな変革の時期が到達していることを暗示していると思う。何故記号をつけるのか。使い方にもいろいろあると思う。例えばこの言葉は非常に重要なのだという意味でつけることがある。この言葉は偽の言葉だ別の言葉に読みかえて欲しいというマイナスの意味でつけることもある。あるいは、自分は今この表現しか思いつかないだからやむを得ずこの表現のまま放置するという意味でつけることもある。それから交換関係としてつけるのもある。この言葉とこの言葉は交換関係にあるーあるいは密接な関連があるーだから注意して読めという風に。それから不確定な言葉につける場合がある。 しかしすべてに共通していることは言葉の根拠を疑い始めたということです。 言葉の根拠を疑うということは自分の発想の根拠を疑うということであり、一言も喋れないという意識につながってくる。自分の行動なり発言の拠点を疑わなければ何一つ出来なくなった。そういうことが記号一つにも現れてきている。 その場合、大抵の人は終止符としてつけてしまう。記号をつけたからある効果が生まれた。そういうことでそのまま放置してしまう。ところがこのつけ方は検討しなければいけない。記号をつけるときには、記号をつけざるを得なかった意味を最後まで運動させなければならない。その記号を別の言葉に置き換えて、例えばヘルメットでもいい、鉄パイプでもバリケードでも落書でもいい。つまり言葉に記号をつけるとき開始符としてつけよといういい方は、自分が決定的な行動に立ち上がったならば、それは未知なるものへの終わりなき出発なのだということです。形だけヘルメットとかバリケードとかいうもので判断すべきでなく全く未知の新しい過程が始まったのだ、そしてその意味を最後まで追求しなければならないのだということ、そういうことを今記号、カッコで象徴的に語ったのだがー言葉というものはそういう怖しい面を持っているわけです。 バリケードの転倒ここでいくつかの言葉にカッコをつけてみます。例えば共闘について。今まで共闘という言葉は自分と誰かの共闘、あるいは自分のセクトと他のセクトとの共闘というふうに使われた。しかし、自己の必然的なテーマと状況全体にとってのテーマを共闘させる。ーそれが共闘の真の意味だということです。それからストライキという言葉にもつけてみます。今までストライキは、ある要求を出して、これが受け入れられなければ何もしないという戦術として出てきた。しかし今私が二月以降やっていることは取引の条件としてのストライキではなくて、分裂した存在を統一し尽すまでの永続的なストライキ、つまりこの世界に分裂した存在がある限りどこまでも続けるストライキであり、また自分だけでなく、学生、労働者、あるいは、男女という性的なもの、その他、この社会に生きていることから生じる一切の矛盾をなくしていくための徹底的なストである。そのストは何もしないためのものでなく、分裂を止揚するためのストだから非常に激しい行動も含み得るわけです。また内部と外部という言い方がある。大学の問題は大学の内部で解決せよ。あるいは教官は教授会内部で改革に努力せよ、という言い方がある。その時内部と外部をまるで風呂の内と外というふうに、はっきり区別されたものと前提している。それが非常に欺瞞的だと思う。例えば私自身について言えば、教授会に参加しないことによって、まさしく大学構成員として本当に機能し始める。あるいは直接大学に来なくても自分の課題を追求していくかぎりは大学の内部にいる人よりもはるかに追求を深めている。われわれは内部と外部という言い方を決して体制側の言い方で見てはならない。例えばバリケード内部という言い方もそれです。外から見ると建物の内部に閉じこもって、一生懸命闘争のことだけをやっているように見えるが、本当にバリケード内でやっている人達は、自分達が外部にいると感じているはずです。この世界から何とかして飛び出そう、ブルジョア社会を何とかして否定していこうーそういう外部として意識しているはずだし、すべきなのです。それは逆バリケードという発想につながります。各地の大学のバリケードだけに眼を奪われるのではなく、この瞬間にもいろいろな拘置所や留置所で狭い空間に坐り込んでいる人がたくさんいる。私も、そういう人達に向かって今語っているわけだけれども、権力の設けた空間というのは権力がその人を閉じ込めたと思い込んでいる一種のバリケードです。その中にいる人達は、権力というものを鉄ゴウシの向こう側から眺めており、本当に閉じ込められたのは権力であるーそういう転倒が可能になります。そうすると、この社会というものは二つのバリケードによって挟まれている。ちょうど記号によって挟まれているように、権力が自分を閉じ込めるために作った逆バリケードによって。またこの瞬間にもどこか眼に見えないところにたくさん逆バリケードの空間とこのわれわれのバリケードの空間というのは、眼に見えないけれども、連続空間なのです。そういう内部・外部の転倒がどうしても必要だと思う。言葉を吟味せよそれから学生参加という言い方があります。しかし、学生の参加を認めるという言い方は、自分で自分の首を締めるようなやり方で、責任を分担させるわけです。参加という言葉だけにひっかかってとびついてはいけない。全ての言葉は、それが体制の側からきたのか、反体制から来たのかを慎重に検討しない限り、言葉自身ではどちらにも使えるわけです。日本の支配階級は言葉の使い方が非常に巧妙で、例えば日本が敗戦した場合には、終戦というふうに言葉をごまかす。決して敗けたとは言わなかった。それに大学紛争と言います。紛というのは、まぎらわしい、混乱しているという意味で体制側の言葉です。一九五六年にハンガリアで労働者が蜂起してソ連の戦車と闘った事件がありました。当時の日本共産党は、ファシストの陰謀と評価した。一般の歴史の本などには、ハンガリア動乱、ハンガリア事件というふうに書いている。しかし現在、私はハンガリア革命と呼びたい。ある名前の呼び方によってその人の全世界観が暴露されてしまう。表現には、そういう怖しい面もある。表現の自由という言葉もうっかりすると、体制側の論理になってしまう。表現の自由を守ってやるからお前の側でもこれこれの条件を守れというふうに、いわば体制の側に受け容れられる表現ならかまわない。しかし体制の論理を突き破るような表現なら粉砕するというわけです。次に自分の言葉をどうして創り出すのかということ。一生懸命、徹夜して考えるということでなく、言葉は至るところに空気のように存在している。ただそれをまだ発見しないだけだということです。別の言い方をすると、今われわれは死んだ言葉にぎっしりとり囲まれている。死語の堆積の中でくたばっている。それがわれわれ一人一人の状況である。つまりどこかに闘争があって、それに自分が参加すれば闘争に参加し、新しい表現が生まれるというのでなしに、それと全く逆に、ちょうど雪崩のあとのように死んだ言葉にうちのめされて血を流して横たわっているのです。そしてそのことにすら気がついてないのです。打倒された状態から、言葉一つ一つとりのけて、血を流している自分に気付くことが出発であり、闘争の参加であるわけで、だから決して華々しい勇敢なものではないです。非常に孤独で無名な行為だと思います。だからテレビで闘争のニュースが流されますが、あれは全てフィクションと思っていい。真の闘争は決してフィルムには映らない。そう決めていいと思う。 共闘の真の意味このあたりで総括的にふりかえると、自主講座でもなんでもいいですが今までは何月何日に、私なら私という人間がBの109で話をするから是非参加せよというふうにそういう情宣がなされたと思う。また、講師になる人もそういうつもりでやって来たと思うわけです。 しかし私の場合はそうじゃなくてどうしようもなく、自分が何かを表現したかったら自分でそういう企画をして、自分を表現してみようとした。そうじゃなければ表現の意味が堕落していくと思います。それから自分自身で考えたり文章を書くのはわりあい好きな方だけれども人に直接語るのは非常に苦手な人間なんです。この教室には数十人の人がいるけれども、私自身は自分に対して語っている訳なのです。自分の言葉がこの空間を一周して、また自分に迫って来る。その過程でどういう人、どういう問題と交差するか、そのことを自分で確かめるために語ってきました。最初に三つの原則を決めて置きました。一つは自分の闘争そのものとして語る。二つには一個の問題提起者としてのみ語る。三つ目は既成の表現体系を破壊するために語るということです。最後に言うと本当にしゃべりたかったことは今しゃべったことと全く関係がなかったという気がしきりにします。しかし本当にしゃべりたいことをしゃべれなくっても、しゃべらなきゃならないことがあるんだということを強調して問題提起を終ります。 |