私 信松 下 昇十月末までに、ご依頼の原稿をかかない理由をかいて送る、と約束をしましたので、思い切って何かを走りがきしてみます。 私が、自らの意図で構想し、発表していこうとするときに浮んでくる表現から、最も遠い位相にあるものは何であろうか、と考えてみる習慣が、この数年、私をしばしば立往生させますが、それは大学闘争における懲戒処分説明書や、何枚もの起訴状が私を拘束している度合に対応しているはずです。 これらは、私が意図しようとしまいと、私に関して表現され、しかも、現実的な影響をもつために、私自身の表現とは完全に対立するものですが、同時に、私から最も遠い私によって提起された表現、ということもできるし、そのようなとらえ方を媒介しない限り、それらの表現と真にたたかうこともできないように思います。 懲戒処分説明書や起訴状に関連して、私が何かを文書にして提出する場合、そこには私の名前を記入しておかざるを得ないことが多いし、法廷で語るようなときには、速記され、調書となって、裁判官による判断を導いていきます。(ついでにいうと、法廷での発言、とくに証言を、私は、講演との関連でとらえています。逆にいうと、さまざまな事件の被告や証人たちは、たとえ無意識のうちにも、しいられた講演を、大学祭などとは異質の空間でいまもおこなっているのでしょう。) 文字にされたものが活字になっていく過程の独立した領域の意味については、私は、それを原則的に認めますし、むしろ、その領域を通じてしか、表現の過程が異質の時=空間へ連続していかないことがありうると考えてはいるのですが、この考えを揺りうごかす別の経験をのべてみます。まず、〈六甲〉、〈包囲〉というある表現をおこなったのち、具体的な原稿用紙に何かをかくことのなくなっていた私が、一九六九年二月二日、はじめて、もぞう紙に、マジック・インキで〈情況への発言〉をかいて掲示した瞬間には、これが、ビラや、新聞記事や、大学の広報などに引用されることは予想していませんでした。また、同じ年の八月八日に、バリケードが解除されるとき、私は研究室に存在し続けて、扉に、掲示を〈バリケード的表現〉としてはり出したのですが、機動隊員や教職員によって何度も破り去られたのち、すぐには破り去られない表現として、扉や壁や広場の上に直接表現するという方法をえらんだのです。この表現方法も、ラクガキとして、処分や起訴の理由になっていきます。 そして、これは私にとって重要なことなのですが、前にものべた例を含めて、私がおこなってきた表現は、たんに、闘争における意志表示という意味だけをもつのではありません。それは、むしろ、作品や、恋文に近い領域をも包括していたのです。 この数年間、私のかいてきたものを、大学闘争の記録という視点から、まとめて出版しようという企画や、あるテーマについて原稿をかいてほしいという依頼が、いくつかありましたが、それを拒否した、というより、ためらった理由は、先に断片的にのべてきたことを、編集、出版にかかわる過程でどのようにとらえるかについて極めて絶望的な情況があったからです。従って、何かを表現したいという衝動ないし必然性があるにもかかわらず、あえて、法廷などでしいられた時にのみ表現し(その法廷にも、持続的に不出頭したことにより、何回か勾引状が出されましたが。)、あとは日々の生活を支える仕事に黙って従事してきました。もう一つ、いくらか、いうのがつらいことですが、一九七〇年の冒頭にかいた 〈なにものかへのあいさつ〉の直後に生まれた私の子供が、胎内にいる時の母体に強い精神的=情況的影響をうけたことを大きい理由として、出生後も発育がおくれ、現在に至るまで、一つの言葉も口にしません。たのしそうに遊びはしますが、その姿をみるにつけても、かたること、かくことの重さ、怖しさが、身にしみるのです。 以上のベたことは、あくまで、私にとっての固有な経過であり、私は、この状態を最上のものとは思いませんし、他の人におしつけたり、評価の基準にしようとも考えていません。できれば、私の陥っている、この難関(アポリア)から、次の段階へ歩み出す道をみつけたいと願ってもいます。そのためには、ここにかききれなかった膨大な問題群との格闘が私に不可欠であることはいうまでもありません。 この一、二年の間、私に、原稿を依頼する編集者はいなくなっていましたが、偶然か必然か、こんどご依頼をうけたので、すぐにお断りするのも心苦しく、私信という形式をとって、ここまでかいてきました。 いま、かなりの勇気をふるいおこして一つの提案をしますが、この文章自体を、あなたの判断によって、原稿として掲載していただく、ということも可能ではないか、と考えています。それによって、何かのかたちで、この文章の掲載にかかわる全ての人たちの表現の根拠を、いささかなりとも問い直す契機となれば、私にとって、これ以上の幸せはありません。 一九七四年十月三十一日 松下 昇 「伝統と現代」編集部 林 利幸様 |