註・1971年1月29日、東京都立大学解放学校での発言である。発言後の討論記録と共に、集会参加者によるガリ刷りパンフとして文字化〜可視化している。1979年6月に回覧用として作成された発言集原本には、この初出パンフのコピーが収録されていたのであるが、原本が占拠空間(京大A367)から執行官及び大学当局によって留置されていた1988年段階で刊行された発言集〈 〉版は、「あんかるわ」第28号へ関連資料と共に転載されたものを応用している。とりあえず、仮装組織論について、あるいはその後の展開の意味について、易しく集中的に語られている松下の発言部分を書写して掲載することにする。討論部分や第二回公判調書等に触れたい方はメールをいただければコピーを送付可能。

◉ 松下昇の報告と問題提起 ー 仮装組織論

(1971年1月29日、東京都立大学解放学校において)

 一昨年の暮十二月に都立大学の解放学校で発言して以来、去年一年間は一度も上京する暇がなかったので、今日は、七十年をはさんで再び解放学校の諸君と出会うという意味をもっています。
 テーマは「仮装組織論」というふうになっていますけれども、それを提起するに至る空間性という問題があると思います。つまり大学闘争におけるバリケードとか、自主講座の占拠する教室とか、又、私が解雇されて以後の研究室とか、今日の会場設定の過程で明らかにされつつあるスターリニスト集団との空間的な対立関係、それらは一昨年の暮にも別のかたちで提起しましたが、今日の仮装組織論も、それとの関連で提起しているのであることをのべておきたいと思います。
 そこで、何から語りはじめてもいいのですが、七十年の夏にかいた一枚のビラを手がかりにしてみます。「裁判を一つの比喩として展開されつつある闘争に関するレジュメ」(「あんかるわ」26号に転載)をかかざるをえなかったということの背後には、私たちがこの闘争からひきうけていくであろう名付け難い問題の予感があったのです。又、それは、神戸大における被告団にとどまらず、大学闘争の過程で生まれ出たすべての問題に連続するだろうと思います。それらすべてに到達するために、とりあえず、私たちの、可視的には5名の、被告団の問題を語ってみます。
 まず、私たちの被告団には名前がつけられていない。誰も名付けられないということがあります。新聞とか雑誌とか、あるいは、闘争にかかわる人達がそれぞれ違った呼び方を強いられてしまう。その理由はいくつかあると思いますが、まず、単独の日付をもたないという事があるでしょう。正常化の過程のいくつかの日付を権力の方が統一して起訴しています。さらに闘争の日付と起訴の日付がかなり離れているのです。つまり、今までは大ていの場合、闘争の直後に逮捕、起訴があったわけですが、私たちの場合には、ある闘争から数ヶ月もすぎさった、ある時点から逆にさかのぼって闘争過程を積分するように闘争者を起訴していくという形態をとっています。ですから特定の日付ではなくて正常化過程の時間をすべて含んでいるのです。その中のピークを拾っていきますと、授業粉砕であり、試験粉砕であり、さらに教授会粉砕、ラクガキ、ロックアウト体制粉砕というピークをもっています。
 しかしよく考えてみると、それぞれの日付にだけ闘争したのではなく、そういうピークをつらぬく連続した反革命の日常性に対して闘ってきたのですから、何月何日闘争被告団という表現ができないわけです。又、場所的にも、ある固定した場所を死守したわけでもないから何々死守闘争被告団とも言えない。さらに本質的な問題は、もっともよく闘争をささえた人が起訴されているとは限らないのです。むしろ権力からみて、ある運動なり組織なりの指導者とみなされている人達が起訴されて、闘争の底辺でもっとも困難な領域をささえた人達というのは、むしろそこからこぼれ落ちている。そうしたことを含めて私たちの被告団は、どうしょうもなく名前をつけにくい性質をおびてしまうのです。
 ですから、裁判闘争を展開するにあたっても、ただ単に権力と対決すればいいと言いきれないわけです。それと共に、ありとあらゆる問題がふき出してくる。それを解決しないで、反権力を叫ぶだけでは、空洞化・欺瞞がしのびこんでしまいます。昨年の12月24日に第1回公判があったのですがそれまでに統一被告団会議というものは一度ももつことができず、従って法廷において初めてすべての被告が顔を合わせた事になり、あえていうならば内在的に生み出された統一被告団ではなく、権力に強いられた統一被告団という形態をとって出発しています。
 ですから、今日のテーマである仮装組織論にかかわらせていえば、私たちは権力に対して仮装する、ないしは仮装組織論を展開するにとどまらず、裁判闘争を成立させているすべての力、引きずりだされてくるすべての問題に対して、仮装せざるを得ないわけだし今後もそれを持続していかなければならないと思います。
 その第一回公判でまいたビラ、これはお読みになった方もあると思いますが「仮装としての被告とは何か」というものです。それをもう一度読んでみます。
 こういった一枚の紙切れが法廷という空間に出現していますが、その前史と後史を簡単に述べてみたいと思います。
 こういう仮装組織論という言葉そのものは、数年前に私が「六甲」という作品を書いた時に萌芽的に提起したものですけれども、その時点では、大学闘争がこういう形で展開するという事は直接には予想していなかったわけです。何かが始まる、いまは何かのイヴであるという予感はあったのですが。そして神戸大というのが日本でもっともおくれた政治地帯であったこともあり、様々な闘争の展開も強いられた遅れをもっていたわけです。それを最大限に逆転していく過程が、私達の六甲空間における闘争であらしめたいのですが、その一つが裁判闘争だといえるでしょう。
 強いられた遅れ、といいましたが、裁判闘争にしても、昨年の暮に第一回公判が行なわれたというふうに時間的にも遅れて始まっています。(神戸大でも他に三つの被告団があり、これは数回〜十数回進行していますが。)そういう遅れを最大限に転倒していくためには、いままでの裁判闘争なり、その他ありとあらゆる闘争の問題をすべて総括しなおしていかなければならないし、又、そうしない限り私たちの表現を展開する意味がないと思っています。
 具体的な経過は公判調書を読んでいくと非常におもしろいので、重要な所を拾っていきますと、「被告の人定を……(中略)……とどめおかせた。」これは前半の記述の一部です。要するに被告席に被告以外の人間がはいりこんだ。これはいろんな評価が可能なわけで、商業紙を含めて、その評価が評価者の発想の水準をすべて暴露してしまうと思います。
 まず、聖歌隊の仮装について。この仮装者たちはそれぞれホテルでアルバイトをしているのですが、シーツをかっぱらってきてオーバーの下にまきつけてはいりこみました。(笑)一人は外で陽動作戦として公然と仮装して聖歌をプリントしたビラを配布し、そして五名は中で裁判長入廷と同時にオーバーを脱ぎ捨て「もろびとこぞりて」というのを合唱する方針でした。裁判官は、私たちが入廷に際して起立しないだろうという予断からでしょうが、私たちより先に着席しており、合唱は開廷宣言の時に切りかえましたが、この合唱はたんに裁判長の入廷を嘲笑するだけでもなければ、クリスマスイヴだからそれを利用する仮装をしたわけでもなく、まさしく仮装被告団の誕生をつげる表現であったのです。したがって聖歌隊員が五名であるということは、いわゆる法的な被告の人数に合致するわけだし、また全ての裁判への参加者に対して仮装とは何か、という問いをつきつけたことになります。私たちはどんな服装をしていようとも必ずある仮装を強いられている。たとえば権力は、法廷空間の中では、異常な服装をしてはいけないというように、正常と異常とを自分の規準で判定しようとします。可視的に、目に見える形で。この時も、驚いた裁判長は、五名の聖歌隊をただちに退廷させ、ひとまず、法廷に異様な服装がない状態になりました。
 ところが私たちの仮装組織論からいうならば、真の仮装とは服装にとどまらないのですから、空間による仮装、つまり法的には被告でない人間が被告席に入りこむ、空間の移動による仮装が私たちのねらいだったのです。つまり人定質問が始まる前は、誰が被告であるかは法的には判断できない。したがって人定質問が始まる前は、だれが被告席にいても止める事は完全にはできない。この方針は第一回公判であるから可能であったのかもしれません。また、被告が拘置されていないから可能であったのかもしれませんが、ともかく、そういう条件を最大限逆用して、法的な被告ではない人間も被告席に出現したのです。その場合、さっきもいいました様に、全員を結集した被告団会議が一度もなかったので、法的な被告団は、その戦術を殆んどしらなかったのです。法的な被告だけでなく、弁護士、傍聴人をふくめて何重にも混乱が生じたはずです。ある被告は傍聴席の空間性をとらえるために、あえてそこにとどまり、別の被告はとっさの判断で、ある段階まで(仮装被告の退廷)被告席に入りませんでした。この二名はそれぞれ重要な意味を提起しているのですが、ともかく、被告席に七人が出現したとき、裁判を一つの比喩と化する、ある激しい闘争がはじまったのです。私が被告席でいま、ここで統一被告団会議を展開しようと発言したことは、今いったような内容を含んでいたわけです。この発言はもちろん禁止されすぐに人定質問が強行されましたが、仮装被告の一人が何度も立ち上がって代返した他はだれもこたえず、検事の写真照合によって残りの仮装被告も次々に退場させられました。(その中の一人は拘束、傍聴席の仮装被告は退廷)その時、私たちは権力の知ることができない内的な情念が星雲のように爆発するのを、それぞれ感じていたはずです。そして、そのような爆発なしには権力を倒せないだろうということも。ここにふくまれている問題の十分な展開は、かなり遠い先にしか私自身にもできないと思います。
 この法廷では人間が仮装するだけではなく、物体も仮装していたことをつけ加えておきましょう。私達の闘争が表現を主要なテーマにしている以上被告であっても、いや、被告であればこそ、いろんなメモをとったり、記録を参照したりする必要がある。だから、被告席には、全員机を置け、と弁護士から要求したのです。裁判長は最初はためらい、検事は前例がないからと強硬に反対していたのですが、最後には、弁護士の、それなりに有効な論理に屈服して、机を持ちこまざるをえなくなりました。つまり、私たちは法廷に仮装被告を送りこんだだけでなしに、バリケードとしての机を持ちこんだということになります。
 その次に重要な問題は、権力の規定した時間が、空間を転倒していく試みがあったのです。つまり裁判官は、その仮装被告団とバリケードとしての机に圧倒されて何一つ対応することができなくなり、閉廷すると宣言したのです。おもしろいことには、裁判長が「これで閉廷します」と言ったとたん、最初に立ち上がったのは新聞記者でした。私は、まだ誰が被告かわかっていない、と総括発言をしながら、傍聴席に向って、小さな紙片をなげました。それは被告席と傍聴席の柵を粉砕していくという、解放学校の闘争と共通性をもっていると思いますが、私は、裁判長が閉廷するといったから審理は終るのではなく、むしろ法廷指揮権の時間支配を粉砕していく過程として、また、被告席から傍聴席へ投げかける空間的な叫びとしてその記号〈 〉だけを書いた小紙片を投げ、その瞬間に拘束されました。私の拘束に抗議する人たちに対して機動隊が導入されて乱闘が生じ、さらに別の一人が拘束されたのですが、新聞記事は閉廷以後のことは全く書いてないのです。つまり、裁判長が「閉廷」といったとたんに裁判の記事を中断してしまっている。直接、みていなかったということもありますけれども、彼らの時間・空間の概念というものが、権力の規定するままであるということを示しています。私たちは権力の規定してくる時間や空間をどこかで転倒していかなければならないと思います。
 その他、いま浮かんでくる問題をいくつか述べておくと、制裁裁判においては傍聴席には警備員の他だれもいない。(私の場合は例外的に弁護人がいましたが)つまり、わずか一時間もたっていないのに、あるときには傍聴人がぎっしりつまっており、その直後にはだれもいない、というきわめて大きな落差が、実は裁判の本質を明らかにしているのではないかと思います。どんな裁判闘争でも最初の段階では、たくさんの傍聴人がつめかけ関心がもたれる。しかし、だんだんそれが減ってゼロということもありうる。そういう変化を同じ日に示したのがイヴの制裁裁判ではないかと思うのです。密室であらかじめ決定がなされており、審理とか陳述とか証拠その他の追求を全くぬきにして、はじめに決定ありきという形で裁きがいいわたされる。この制裁裁判こそがとりわけブルジョワ社会の裁判の本質であると思います。
 それから法廷空間では、普通の空間であれば何でもないことでも禁止される。タバコをすうとか、異様な服装をすることとか、発言禁止を破るとか、着席の場所、動作とか、その他いっさいが規定されてくる。一方あらゆる表現・行為が、一方的に記録・判定される。つまり、この社会における行為の階級性が圧縮された空間でわれわれの前に提示されてくると思うのです。この問題を拡大していくならば、この社会の全空間に多かれ少なかれそういった規制を確認できます。それは、ちょうど大学闘争において大学という幻想的な空間の中で展開されたことが、この全社会において展開されていることの特殊条件下の拡大であるという位相に対応しています。
 ところで、いま法廷空間についてのべていることは、別のいいかたを媒介にしますと、怖しい問題に連続していきます。私たちは法廷もふくむ全ての空間で国家権力という水準から拘束されているばかりでなく、国家権力というものを〈 〉に入れてみると、いろんなものからやはり強いられている、強いられた共同性というものにさらされていると考えるのです。それをとらえる試みのひとつが仮装組織論であるといえます。つまり仮装被告団というものは、権力によって強いられていた外圧的な被告団を内在的に突破していこうとする試みでもあり、被告団という言葉を他のいろんなものにおきかえることが可能なのです。それが前衛であったり、思想的な指導者であったり、また、自分の幻想領域をおおうさまざまな問題であったり、何でもいいわけですけれども、自分(たち)にとって最も外在的に強いてくる力と対抗するための方法にしていきたいのです。
 昨年の処分過程でも痛感したのですが、裁判についてもいえることは、対象を過去の事実に対する審理という風にとらえるかぎり、敗北は決定的だろうと思います。つまり、裁判はたんに過去の事実に関する追求ないしは闘争ではなくて、それを転倒した未来においてはじめて開示されてくる事実性に関する問題提起と、その場所の構築をめざす必要があると思います。つまり、過去の事実をあつかう立場そのものが新たな闘争を生みだしていく、そういった形態として展開されないかぎり、裁判闘争というものが矮小な次元に収束してしまう危険を感じます。
 次に第一回公判と、今年の1月22日の第二回公判との関連性についてのべてみたいと思います。第一回と第二回のいちばんい大きな違いは、公判調書があるかないかということでしょう。私たちは表現を主要な闘争の場にしていく以上、どんな公判においても、前回の公判調書についての全面的な批判をおこなうという原則を提起しています。つまり、裁判闘争というひとつの事実性があるとして、それに対する無数の評価、記述が可能になります。何人か新聞記者が傍聴している場合、それぞれの新聞記者は全部ちがってくるし、また、その法廷に関心をもつ全ての人たちの記憶とか判断のしかたがことなるでしょう。にもかかわらず、公判調書に記述された言語だけが公的なものとみなされ決定(力)をもってしまう。それこそがこの階級社会における表現の問題として、その本質をもっとも明らかに示すのではないかと思うわけです。第二回公判では、第一回公判の公判調書の記述に対する批判をすべての裁判に参加した人がおこなうという方向が提起され、私は人定質問は完了していないと主張しました。裁判官は検事が写真で照合したから人定質問は終ったといいはります。しかし、写真による照合だけで人定質問が終ったとは言えない。つまり、一方的な認定ではなくてその被告自身が、私は……であると確認する必要があるのではないかと反論したところが、裁判長は拒否する根拠をどうしてもみいだせず、では順番にやってください、といいかけた時に、また、私が立ちあがって、あなたが指定する順番にやるのではなくて、私たちのうち、やりたい順番に行ないたいと発言しました。つまり、六番目の被告論を持ちだしたわけで、これに対して傍聴席から仮装被告として登場する人があり、ここでまた警備員や機動隊との衝突が、いたるところでくりかえされました。
 第二回公判でおもしろいのは、法廷空間の焦点が移動し、またいろんな人が発言を強いられたということ。例えば、調書批判をやったとき、いちばん目立たないはずの書記官に視線が集まったのです。書記官はいつも裁判長の机の下でひっそりとテープをとったりしているわけですけれども、私が調書批判をはじめると動揺したのか普段よりも勤勉に仕事をしはじめました。また傍聴席全員退廷によって、傍聴人が、機動隊員や警備員と話をする機会がふえた。つまり一対一で退廷させられていくわけですから、第一回公判では主として被告席の仮装被告団が発言するにとどまってしまったけれども、全員退廷の場合はなんらかの形で体をふれあう、言葉をかわすという形態で法廷から排除されていきます。その場合たんに一人対一人ではなくて、国家権力の代表者と仮装被告団の代表者という形で接触せざるを得ないのです。そして、私は証言台を占拠したまま後をむいて、舞台となった傍聴席をみつめていました。それから、第二回ではマイクがひとつの意味をもちました。というのは、マイクをだれが持っているかで発言権が運動します。検事が起訴状朗読に先立ってマイクを移動させようとした時に、私はそのマイクを奪いとりました。これは再度の拘束の理由になりましたが。私はむしろ、検事席まで散歩するたのしさにひかれていたのかもしれません。なお、混乱の中で裁判官席まででかけて何かをささやいている人もいました。(笑)

 いままで簡単に報告したような裁判闘争で当面している困難な問題を、いくつかふれてみますと、例えば六番目の被告問いうことがあります。一昨年も解放学校で、私たちの闘争のスローガンは六番目は何も書いていない、それを自分の言葉で表現し、実現していくつもりであると発言しましたけれども、被告団の数も、法的には五人おり、六番目の被告を創出していく絶好の条件を具えています。六番目の被告は単数ではなくて不確定なのですが、それを、裁判闘争の全過程でどのように出現させていくか、ここで被告の交換可能性と不可能性という問題につきあたるわけで、確かに、思想性からいえばすべての闘争参加者が被告であると、いいきることはできるのです。けれども、深い生活過程、現実過程の中でそう簡単にはいいきれません。また、一回ごとの裁判闘争の戦術にしても、一回やった戦術はその次の段階では権力の方も準備していますから、同じことを続けてはやれない。それから、私は、六番目の被告だけを強調しているつもりはないのです。つまり、五番目まではっきり確定しており、六番目以降が不確定だというのではないのです。六番目以降が出現したときにはじめて共同性としての被告団も出現しうるという関係にあるわけです。だからこそ、人定質問というものは永遠に終了しない。少なくとも私はそういう風に考えています。権力が、肉体を拘束したり、いろんな罪状をつけくわえたりしても、個別にひきはなされた被告としては永遠に存在しない、また、権力が規定するような名前、住所、職業、その他を持った人間としては存在しえない。裁判闘争が終了するまで人定質問が終了しない、という形でどこまでやれるか、それは裁判闘争の問題であるにとどまらず、人間の存在の本質にまでいきつく問題だと思うのです。私はだれか、という問題には決して簡単にこたえることはできない。闘争とか法廷空間を媒介にして私の本質、私たちの本質が、もう一回苛酷に問いなおされてくるわけで、法=国家がおこなうような汝はこれこれである、というような記述を認めてはならないと思います。
 だから、私たちが当面している問題のうち最大のものは、私はだれであるか、という問いかけを、困難な情況の中で、どのように展開するかということですが、この場合私たちの闘争が法廷空間における実験におわってはならないし、大学闘争がひきだした全ての問題と、七十年代の未踏の階級的=存在的闘争がもちうる全ての問題を包括しつつ、闘争者の内部におけるありとあらゆる矛盾そのものと対決していく必要があり、そういう重層した闘いは、極めて困難なわけで、今後どのようにやっていったらよいのか実はあんまり見通しはないのです。それがまた一つの希望ではありますが。
 さらには幻想的な刑という問題があります。私自身がここにきているのも、いわば幻想的に監置された人間としてきているのです。それはどういうことかというと、最初の拘束のときは過料三万円、二回目は、三名拘束されたのですけれども、今日騒いだのは傍聴人を含めて全員であるから今回は釈放するが、三回目以降は法廷秩序を乱す責任はきびしく追求すると、幻想刑を課したのです。過料についても三万円の過料をまだ払っていないので、そのうち差しおさえにやってくるだろうと思うけれども、差しおさえというのは、司法権力を家庭の中にひきずりこむ、家庭そのものが裁判所と衝突するという関係であって、ある意味では監置よりも重い問題をはらんでくると思います。なお、私は起訴状その他を、《現代の眼》という雑誌の「危険な思想」という特集に、仮装した私の原稿として発表し、原稿料三万円をもらったのですけれども、過料と原稿料が同額なので(笑)、「カイゼルのものはカイゼルにかえせ」ということばを想いだしています。
 最後に、自分自身をふくめて、この場にいる人たちにいいたいことは、私たちが、めぐまれていない条件におちいったときにも、決してそれ自体はマイナスの条件ではなくて、それをどのように転倒していくか、その転倒のしかたに、私たちの闘争の本質がかかっているのだということです。これからも私は、六甲空間でこの方向を追求していくだろうし、解放学校に結集された諸君は必ずそれを違った場所、違った段階で可能にしていくだろうと確信して、いちおう問題提起を終りたいと思います。