松下 昇 資料集〈楔〉

産業革命第2次から第3次への移行期、人類が言葉を持って以降の諸矛盾を問い直す動きがまず大学を中心に始まった。その渦中を松下昇はどう生きたか?

仮装被告団〜刊行委員会気付 永里繁行

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  • ◎このページについて


     断言できること・・・・・・この瞬間から〈六甲〉をかき続ける主体は、私だけではなく、私たちである。

     関係としての原告団よ、〈六甲〉を吹き抜ける風にのって、当然の比喩だが、タンポポの綿毛のように、弯曲した世界へ突入していけ。

     私たちのであうたたかいが、〈六甲〉第六章=終章を表現することである。

                           (松下 昇「六甲」第五章末尾)

    タンポポ

     ~1969年~前後、世界的規模の学生らの反乱は分水嶺を超えつつあった。まだ確かな言葉に到達しえない彼らと問題を共有しつつ対極の位置から前線に押し出され、造反教官とも呼ばれて生活域を追放された後も、生死の境界さえ突破するほどに表現責任を担い続ける松下昇に焦点をしぼる。


    ◎松下昇年歴

     五月三日の会通信、時の楔通信、神戸大学闘争史、批評集、表現集、発言集、概念集等、生前刊行されたパンフ群と、「松下昇クロニクル」(高尾和宜作成)を参考にしながら軌跡を辿ってみた。彼のかすめた領域や交流した人々、あるいは為しえた表現は極めて多岐に亘るのでごく部分的な抽出に止まる。なお、【1976年】の記述に関して岡山大学の坂本守信氏から、「松下氏が最初にO大祭でのシンポに参加されたのは、’75年です。その後’78、’80〜’87年(’76、’77、’79年はO大祭以外の者が対等に参加しうる実行Cが形成されなかったこととも関係して大学祭開催と重なってのシンポは開かれていません。)ちなみに’69年5月O大全共斗主催の“バリケード祭”で松下氏が講演されたことは、金本(浩一)氏が“書簡集”で記されているところでもあります。」(〜2015年1月8日〜付私信)との指摘が寄せられている。

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  • ◎松下昇からの委託

     彼が自らの身体的異変~切迫を自覚しつつ筆記した遺言的位相の表現は複数存在する。明確な遺言の形をとったものとしては、まず、1989年9月のB5原稿箋1枚・3項目の家族に宛てた「遺言状」があり、それには、居住空間の遺品について、
     『2.骨や書類を含む物品は全てまやと未宇にのこす。保管~破棄はまやの判断に委託する。』 と記されている(註・まやは長女、未宇は1976年小学校入学の日に早世した長男の名)。
     1990年2月2日、同「遺言状」にB5原稿箋1枚・6項目を付記し、
     『6・[本や]書類は、前項2を原則とするが、保存が困難ならば、チリ紙交換に出すか焼却すればよい。』としつつ、書類について、『できれば部屋全体を写真にとってから、各位置ごとに番号をつけ、それに対応するダンボールに入れて保管する。』と書き込まれている(註・『前項2』とは、上記’89年9月の『2.~まやの判断に委託する』という条項のこと。また付記の日付は友人菅谷規矩雄の葬儀の日であり、2月2日は、1969年神戸大学構内に〈情況への発言〉が出現した日であり、翌年の長男未宇~生誕~の日でもあった)。

     語学教育者~研究者として20年にわたり東南アジア諸国で活動を続けてきた松下まやさんは、2010年夏にインドネシアから帰国。おそらく残された時間があまりないことをどこかで察知しておられたのであろう、遺言状で自分に判断が委託されている本や書類のリスト化~整理作業を、山本光代さんほか各地の関係者数名の協力を得つつ進めようした。しかし、1年後の冬、悪性腫瘍と診断された彼女は、入院後わずか3ヶ月後の2012年4月16日、残していく母を気遣いながら父や弟の待つ位相へ旅立っていった(享年46歳)。
     彼女の必死の委託を受け止めた者たちによって手探りのリスト化作業~は現在も続いている。

     松下には、ご家族に宛てたこの遺言状とは別に、「1992年3月11日~」(56歳の誕生日)にワープロ打ちして共闘者らに配布を開始した「遺書」がある。
     それには『6.遺品は私の文書および口頭による指定のある場合を除いて譲渡、複写、刊行はせず、基本的に廃棄してよい。」という項目が記されている。
     その真意は〈自分が提起し実践してきたプロセスに共闘することのない自然過程としての出版・刊行ないし利用は拒否する〉というところにあるだろう。何故なら、生前刊行したパンフの各所には、

     『これら全ての既刊ないし企画中のパンフは何かへ向かって深化ないし飛翔し、既成のイメージないし形式からはみ出していく過程にある。この動きに参加し、応用する人々の一人でも多いことを願う。そして、たとえ私が身体的な条件などでこれらの作業を展開することが困難になった場合も、それらの人々が仮装的かつ本質的な刊行委メンバーとして作業を持続していくことを切望する。』(原文縦書き、概念集・9~1993年5月~「既刊表現の総体と今後の作業方向」)
    といった要請がちりばめられている。
     「文書および口頭による指定」を受け取っている者たちは、問題の困難さと各々の条件の未成立性の中で、……「廃棄」の〈自由〉に埋没する方が、むしろ松下の情念の深さに添うのではないか……という逡巡の年月を重ねざるをえない。だが、共闘者の〈一〉人と交わしたやり取りの次のような一節は、提起に応えようとする者たちの苦悩を予測し、各々の自我の狭窄から解放しようとする〈委託〉の方向性を端的に示している。
     『遺言で〈私〉の著作権は “仮装被告団ないし{自主ゼミ}実行委員会へ委託する。” と明記し、(仮装被告団〜)の基本的規定として “(仮装被告団〜)の名称で表現を開示した者の全て” と註をつける場合に~』(~’95.8.11~〈 〉宛書簡)。
     『(遺言の)執行~委託の代表者は、〈 〉さんだけにするつもりはなく、〈 〉さんは必ず入ってもらう、というように受け止めて下さい。提起をとどける範囲も、まだ出会っていない存在も含めて拡大していこうと思っています。』(~’95.10.11~〈 〉宛書簡)。
     「~表現を開示した者の全て」、と一見過去形で記述されているが、「まだ出会っていない存在」という語に象徴されるように、方位は既存の個人や関係性に限定されているのではない。「自由な個人の表現」という幻想をはみ出す名付けがたい表現契機に突き出され、不断の現在を生きる全ての感受性に向けられている。

    ◎仮装被告団

     処分者側から見た松下の表現行為は「松下講師問題」特集として資料化され、『神戸大学教養部広報第22号』(’70年[昭和45年]8月)が 発行されている。同誌は、大学闘争における知識人の行動を典型的に示す記録として注目を集め、国会図書館やアメリカの図書館にも納入された。

     国・大学が人事院に提出した処分理由は12項目、一方、刑事起訴は大学当局の告訴や通報による逮捕等で構成された7つの事件に関わる罪状とされる。大学側資料、処分理由、起訴事実は、〈事件〉の断片を作為的に切り張りした権力による〈大学〉闘争の総括であるばかりでなく、表現の恒久的な圧殺構造であると見た松下は、人事・民事・刑事を 含む〈n〉事審理の場を通して、より対等かつ包括的な総括表現へのプロセスを創り出そうと試みる。神戸大学闘争第1回刑事公判が開始された日、 神戸地裁でのユーモアあふれる表現行為と共に周辺で配布されたビラ「仮装としての被告とは何か」は、かつて「試行」誌に発表した作品「遠嵐」における“関係としての被告団”や、作品「六甲」において創作的に示唆した“関係として の原告団”のテーマの{現実}領域への連続性を爆発的に開示した。

     「私たちは、法=国家やそれと屹立する固有の存在条件に規定され、しいられた仮装をしつつ生きざるをえない。それをあらためて確認し転倒していく契機としての裁判闘争が始まろうとしている。異常な(!?)服装や、歌や、雪のように舞う紙片……などは、すべての闘争手段や表現方法と同じように、〈  〉としての仮装をしいてくる力に対する反撃の模索であろう。
     ところで、きみにとって仮装とはなにか。裁判官、廷吏、検事、弁護士、傍聴人などは交換可能であるのに、被告だけが交換不可能であるのは、矛盾していないか。法的時・空間においては、被告こそ、最もしいられた仮装者であり、かれにとっては、被告を出現させるこの世界の仮装性を解体していく仮装者として登場する他に生きる道はない。一方、権力によって、同じ時・空間に召還されている、いわゆる被告たちは、まだ、外在的にしいられた統一性しか与えられておらず、 真の内在的な統一性を創り出す仮装者とはなりえていない。従って私は、何かの力にひきよせられて、この裁判にかかわっている全ての人間たちに、仮装とは何か、とりわけ、仮装としての被告とは何か、を追求するように要請したい。もちろん私自身も、この要請に従って、権力や存在条件の矛盾を逆用しつつ、なにものかへむかって仮装し続けていくであろう。
    1970・12・24 なにかのEveに 仮装被告(団) 松下 昇」(原文縦書き、『情況』’71年1月号他多数のメデ ィアが転載した)。

     〈神戸大学〉闘争の公判は、大学ごとの特殊性をこえる包括的な刑事公判として以後約20年に及ぶ。松下の問題提起は、法廷の構成そのものを揺り動かし、様々な局面で裁判所を含む機構と衝突した。ほとんどの闘争参加者が裁判と現実生活に挟まれて拘束感を深めるなかで、無限運動をはらむ松下の闘争方針に反発を加速したり、意義は認めつつも共闘の困難さに耐えられず離れていく人々は多かったが、一方で、一見直接関わりのない事件の被告や、法的な被告でさえない者たちの中から「仮装被告団」を名のる者たちが出現する。また、直接の関与は断念しつつ、何らかの形で支えようとする人々も複数存在した。このような経過は、各々のテーマないし表現を持続することの厳しさと共に、同一の法廷にひきよせられている被告の内在的な統一性のみならず、’60年代後半(あるいは、あらゆる年代)の世界史的な情況性の刻印を受けて発生し、時間・場所・対象の違いから別事件として分離させられている〈事件〉や、法的位相を超えるより本質的〈事件〉の統一 性を内在化していく契機を指し示している。
     さらに「仮装被告団」の概念は法的被告人に収束するのではなく、普通人が、関係としての現実において無意識に強いられている存在様式の自覚に関連し、その矛盾の〈一つ〉の不可避な現れが法的被告人の位置であり、個々の存在様式を仮装概念によって包囲する時、法=国家や社会通念から流れ下ってくる言葉の権威は揺らぎ、彫像のように動かしがたい固定的現実の向こうに、ありのままの本来的な〈私たち〉が開示されてくる、と諸々の機会をとらえて松下は告知する。
    (同志社大学EVE講演『同志社大学学術団論集』No.4・No.6・No.8等)

     プロテスタントの日本基督教団(現、日本キリスト教団)に所属する門司大里教会が、牧師招聘問題に揺らいでいた’80年代、「無牧=多牧」の自立的教会概念を掲げて、関西から北九州へ仮装的〈牧師〉が出張してくる日の礼拝献金が、継続して大学闘争の被告人たちへ委託されることを知った松下は、~1981年7月20日~付で「仮装被告団からのメッセージ」を当教会の信徒たちに発信した。
     「(~~~)いつか、必ず、大学闘争とは、仮装被告団とは日々刻々を生きている自分たちの存在様式でもあったのか、と発見していただくこと、その時の実現のために私たちは、あらゆる私欲や党派性や資質の制約を越えてかかわり続けるでしょう。」(原文縦書き、〈門司大里教会〉月報第〈5〉号掲載)。

    ◎{自主ゼミ}実行委員会

     松下が学生らと神戸大学のバリケード内で最初の自主講座を開いたのは、1969年1月18~19日に東大安田講堂が封鎖解除され、「大学の自治」という建て前をかなぐり捨てた各大学が警察権力を導入して全共闘派の学生たちを全国的に排除し始めた頃であった。1月25日、教養部構内のB109教室で開始された自主講座は、敵対的参加者をも対等なメンバーとして包括しながら、次第に学内から他大学へも波及し、多くの大学が〈正常化〉された後も持続していった。重大な局面でビラや掲示や落書きとして出現する自主講座グループの表現行為は、〈大学〉闘争の未踏の水準を象徴するものとして、表現に関わる個人や文化領域に衝撃と関心を呼び起こした。松下は自主講座の原則を次の6項目に集約しつつ各地で報告している。

    (1)〈表現の階級性〉→権力を持つ者と持たない者の表現は文字~音声としては同じでも現実に持つ意味は違う。
    (2)〈バリケードの拡大〉→活動空間がそのままバリケードになってしまうような創造(想像)的なバリケードの構築。
    (3)〈テーマの不確定性〉→自主講座のテーマは、自分たちが創り出しうる最も深い情況に、自分たち自身が存在することによって引き寄せられる一切のテーマ。
    (4)〈全共闘概念の変換〉→自分にとって必然的な課題と情況にとって必然的な課題とを対等の条件で共闘させる。
    (5)〈報復と一行の詩〉→報復~復讐とは、或る情況に原罪性をもってかかわっている全ての人たちが、一行の詩をかかざるを得ない様な現実的条件を作り出すこと。
    (6)〈必然的スローガン〉→体制や機構と同時に、我々自身の表現の根拠を変革すること。
    (~1969年12月14日、東京都立大解放学校での報告「私の自主講座運動」RADIX2号~あんかるわ別冊〈深夜版〉2ー松下昇表現集等に転載)。

     自主講座は、闘争の渦中に各地のバリケード内で行なわれた自主的な問題提起ないし討論を指すが、松下らはその意味を飛翔させ、闘争そのものを包囲する自主講座運動として展開した。
     一方、{自主ゼミ}実行委員会は、制度上の自主ゼミを応用した仮装的な〈主体〉概念である。バリケード解除後の制度にテーマとして突き入り、自主講座との差異から生じる多様な困難に対応する関係性を示す。〈正常化〉した大学に象徴される圧倒的かつ日常的な重力場に存在しつつ、大学闘争の問題提起を再発見し、関わりのある全ての人たちとの共有を目指した。
     規定の授業以外に学生の自主的な授業計画を受け入れる自主ゼミ制度は、闘争の経験をふまえたいくつかの大学で実現した。松下は、74年5月、岡山刑務所から保釈されて以降、京都大学の自主ゼミに関わり、
     (1)公開。
     (2)参加者の自由な討論ですべてを決定する。
     (3)このゼミで討論され考察の対象となった事柄は、参加者が各人の責任において、以後あらゆる場で展開していく。(概念集・2「自主ゼミ」)
    という原則を公的に提起し、制度内での承認を得る。また、大学~制度(単位認定権問題等)や出版~表現の前提を根底から捉え返す実践的試みを、幾つかの大学および具体的な出版物を媒介して展開した。
     こういった松下の根源性が闘争を再燃させるのを怖れる大学関係者は、学生有志による〈ドイツ〉語の〈松下〉ゼミ実現要求を度々否認、対して京大教養部自治会代議員大会は、’76年1月、〈松下〉ゼミ実現要求を特別決議し、これをふまえて大学側の対応を追求する学生らがA367ドイツ語中央室を占拠した。
     その後A367空間は、全大学闘争に関する資料の集積~応用の公開的な場となり、遠方の参加者の宿泊、幼い子どもたちの遊びや生活の場、拡大{自主ゼミ}の会議室、古本市の会場など縦横に応用されていった。しかし、’82年4月以降、京大当局のA367改造計画が浮上し、これを契機に大学知識人の共同性~制度内から松下らを最終的に排除する動きが活発化する。
     人事院判定をめぐる、東京高裁民事法廷における表現行為を裁判官に告訴された松下が、拘置所に未決勾留中だった’85年1月末、京都地裁は国~大学のA367明渡し請求を認可し、2月1日にすかさず強制執行、宿泊の子ども達を含む使用者全員が排除され、大学闘争資料を含む全物品は構内の地下倉庫に移された。{自主ゼミ}実行委員会は、’80年代から’90年代に至る関連裁判とも格闘を続けながら、’69年以降の表現情況の変化を測定し、次のステップへの階梯を模索する共同検証の場を目指したのである。
     この過程に孕まれたテーマ群は、管理され切った現在の大学において深く沈潜しているけれども、一度浮上した意味は決して消し去ることのできない人類史的必然に根ざしており、関係者の生涯的時間を越えて持続し、未知の{自主ゼミ}実行委員会が異なる時と場で共通の課題を見出すだろう。

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